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11月18日(木) 旧暦10月14日
銀行に行ってその帰りにひろった桜紅葉を玄関の椅子においてみた。 誰か気づくかな? 夕方に印刷屋さんのK田さんが来社。 「おお、綺麗ですねえ」と玄関で賛嘆の声がした。 フフフ、気づいたか。。。 ふらんす堂へ入ることを許してあげよう。 スタッフの文己さんも、K田さんの声で玄関に行って、 「ああ、ホント綺麗ですねえ」と。 「桜紅葉よ」といささか自慢げにわたし。 ご近所のクイーンズ伊勢丹の前公園の桜紅葉だ。 まだ沢山の葉をつけている。 あまりにも綺麗なので2枚ほど拾ったのだった。 沢木欣一こそ、いまはなかなかまとめて読む機会がない。 著者の荒川英之(あらかわ・ひでゆき)さんは1977年生まれ、沢木欣一を師系とする俳誌「伊吹嶺」(河原地英武主宰)の編集長であり、評論「『雪白』時代における沢木欣一の「写生」に関する考察」で、第2回俳人協会新鋭評論賞を受賞されている。まだ40代前半の若い俳人の方に沢木欣一について書いて貰えたのは新鮮である。河原地主宰の推薦もあり、ご依頼をしてから一年半以上をかけて取り組んでいただいたのが、本書である。 わたし沢木欣一の俳句は、これまでまとめて読むという機会があまりなかったので、勉強をするつもりで編集作業をすすめたのだった。沢木欣一というと、句集『塩田』などによって社会性俳句というキャッチコピーのようなものが先行してしまう。そういうものを自分のなかから取り払って作品に向きあいと思った。 さて、本書からいくつか作品とその鑑賞を紹介しておきたい。 雪晴れに足袋干すひとり静かなる 『雪白』・昭和十四年 この年、第四高等学校に入学した欣一は、金沢市蛤坂新道(現、清川町)に下宿する。雪や泥に汚れた足袋を下宿の軒に吊るすとき、雪景色の静寂に孤独を覚えたというもの。欣一、十九歳の作。金沢の風土に根ざした生活感情の表出は、私小説的な色彩を帯びている。 欣一は「意欲と表現」(「寒雷」昭16・7)の中で石塚友二の「秋晴れや人にかくれて街にあり」の句を挙げ、「真心のアインザムほど美しいものはない。」と記し、孤独に無上の「美」を認めている。掲句は、この考え方に深い連なりをもつ第一作である。 第1句目を紹介した。19歳の青年のシンとした心が雪の白さをともなって読者のこころに伝わってくるようだ。足袋を干す所作までが静かである。孤独であることにも充足しているような気配がある。金沢という土地柄もいい。好きな一句だ。 寒燈に海鳴りのみを聴くものか 『雪白』・昭和十五年 「原子案山子金沢に来る日」の前書を付す。案山子は原子公平(当時、第三高等学校生)の号。欣一と公平は互いに句作を競い合う仲であった。掲句は、年の暮れに公平と酌み交わした折の作。犀川の下流から響いて来る日本海の海鳴りに、欣一は時代の波にのまれてゆく悲壮な自己の運命を実感したのではなかろうか。寒々しい燈下に、かすかな海鳴りを「聴くものか」と求心的に把握した点が、青春の昏さを感知させる。 この後、二人は加藤楸邨・石田波郷の謦咳に接するため、上京するのであった。 句集『雪白』には好きな句がたくさんあるが、句集『塩田』より。 眉濃ゆき妻の子太郎栗の花 『塩田』・昭和二十五年 「六月、帝王切開により長子誕生 五句」の前書を付す五句中の冒頭句。十九日に長子が生まれ、太郎と名づけられた。綾子、四十三歳での初産である。上五「眉濃ゆき」は、産後の妻の衰顔に眉毛が目立って濃く見えたのを詠んだものであろう。「妻の子・太郎・栗の花」と切ってゆく力強い響きと、栗の花が放つ青臭い匂いに、男の子を授かったという作者の実感が籠もる。 以後、欣一は「赤ん坊に少年の相栗の花」(昭26)、「栗の花いよ〳〵くどく子を𠮟り」(昭45)など、太郎とともに栗の花を詠み継ぐのである。 たくさん紹介したいが、句集『往還』より。 白菖蒲風の離れるときゆらぐ 『往還』・昭和五十五年 東京都葛飾区の堀切菖蒲園では、安積山(福島県郡山市)の麓にあったと伝える歌枕「安積の沼」に由来する花菖蒲が見頃であった。同時作に「葛飾や安積の沼の花菖蒲」がある。掲句は、白菖蒲にからみついて離れてゆく風の微妙な流れを捉えたもの。その清新な詠みぶりが、歌枕への憧れを感じさせる。 欣一は「還暦座談(七)」(「風」昭55・8)の中で、「平凡なもの(補、一木一草)にでもよさを見つけてゆく」ことを説く。こうした視点が、白菖蒲に新たな命を吹き込んだのである。 この白菖蒲の句も好きな句である。 巻末の荒川英之さんによる「欣一論」は、「思想詩としての俳句」と題した論考である。荒川さんは、この論考を「日本統治下の朝鮮」「朝鮮解放」「内灘事件」「沖縄基地問題」「湾岸戦争」という歴史的事件を手がかりにして、それらに対する沢木欣一の意識のありよう、それら歴史的な事件がいかに彼の俳句に影響をあたえたか、沢木の俳句とその思想性に迫っていく。 沢木欣一は大正八年、富山市梅沢町に生まれた。富山中学校で教鞭を執る父茂正が、宇佐中学校(大分県宇佐町)を経て、京城第一高等普通学校に転じたことで、一家は京城府(現ソウル)並木町に移住する。以後、朝鮮各地(咸興府雲興里、全州府花園町、元山府明治町)を転々とした。昭和七年、欣一は元山公立中学校に編入し、原子公平を知る。野球部に所属し、全国中等学校優勝野球大会(現在の甲子園)の朝鮮地区予選に出場した。 昭和十四年、第四高等学校の入学試験に合格した欣一は、金沢の蛤坂新道に下宿する。この頃、彼は水原秋櫻子主宰の「馬醉木」に投句して本格的に俳句を始め、夏には座談会「新しい俳句の課題」(「俳句研究」昭14・8)を読み、人間探求派(中村草田男・加藤楸邨・石田波郷)に魅了される。 それとは別に、当時の欣一は中野重治に傾倒した。重治文学を貫くヒューマニティーが、大日本帝国統治下の朝鮮で育った欣一の心を捉えたものと思われる。 論考の冒頭の部分数行を引用した。荒川さんが書かれているように、多感な時期での朝鮮での生活と、中野重治への傾倒は、俳人沢木欣一に大きな影響を与えたのではないだろうか。本論考において、荒川さんは、欣一の言葉を引用しつつ、作品が時代と向きあい拮抗しつついかに生まれていったかを丹念にさぐり検証していく。 革命ヲ期スと刻せり山笑ふ 『綾子の手』・平成八年 沢木欣一の俳句を知る上での格好な入門書となる一冊だ。 その思想史的背景を抜きにして、どのように鑑賞されてもよろしき百句であると思う。 わたしは、好きないい句がたくさんあったな。。。 井の頭公園の地上を這っていた赤いカメムシ。 思わず立ち止まって写真に撮る。
by fragie777
| 2021-11-18 18:57
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