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10月25日(月) 旧暦9月20日
飯能駅にいたガタイのいい托鉢僧。 飯能市立美術館の側面の窓。 飯能市立美術館。 なかなかすっきりとした建物である。 右手に鄙びた神社があり、その落差が面白い。 そしてこの写真は、今朝わたしの仕事場の机を這っていた蜘蛛。 カメラをむけるとすごい勢いでゲラの山を登りだした。 気配がわかるのだろうか、大慌てで逃げ出す、そんな感じ。 すごく小さな蜘蛛である。 ピントもイマイチ。 新聞の紹介記事を抜粋して紹介したい。 4日付けの京都新聞の彌榮浩樹さんによる「詩歌の本棚」では、櫨木優子句集『忘れ水』が評されている。抜粋して紹介したい。 『忘れ水』(ふらんす堂)は、櫨木優子の第三句集。(略) 割烹着つけて集まり柿の花 状差しに四五日あづけ種袋 猪罠に猪ではあらぬつぶらな目 作為を排した簡潔な措辞が、日常的な景の奥の〈得もいわれぬ味わい〉を表出する。 流されて流れぬ光鮎の川 名月に適へる山の容かな 言葉が調子よく流れ過ぎず、抵抗感を帯びてぶつかり合うことで、大景の量感や質感が流麗に湧出されている。(略) 本句集は、俳句総合雑誌「俳句」11月号にて、池内けい吾さんによって書評されている。「清流は伊予の小京都より」と題して。こちらは少し先になるが「ふらんす堂通信」にても転載して紹介させていただきたい。 集中最も心を惹かれたのは、季語である対象をやさしい眼差しでじっくりと観察している作品群。いずれも平易な表現の奥に、作者の深まりゆく詩境がみえる。 影もまた透きとほりたる白魚かな 落鮎に虹のひといろありにけり ただようて来たるか烏瓜の花 (略)『忘れ水』とは、何と含蓄のある集名であろう。 伊予の小京都よりの、ひとすじの清流を思わせる、清冽な読後感を味わうことができた。 15日付けの愛媛新聞の「季のうた」に土肥あき子さんが福井隆子句集『雛箪笥』より一句鑑賞。 いささかは選り好みして穴惑 福井隆子 穴とはいえ、春までの数カ月を過ごす私室である。周囲の環境や居心地を品定めしているうちに時を逃してしまう蛇もいるだろう。いささか気難しい穴惑が愛らしくも思われる。 と土肥あき子さん。「穴惑(あなまどい)」が、蛇のことだなんて、俳句の実作の経験がない人にはおよそ考えられないかもしれない。しかし、「穴惑」なんて季語、うまく考えたもんだっておもう。秋のころの蛇を指さして「おっ、穴惑!」なんて普通言わないよなあ、季語ってなかなか味わい深いもんだとおもう。 そして、19日付けの毎日新聞の坪内稔典さんの「季語刻々」も、福井隆子句集『雛箪笥』より。 爽やかは健やか夫の良く笑ふ 福井隆子 夫自慢をしている気がしないでもないが、このように爽やかに自慢されると、読者も健やかな気分になるのではないか。 と坪内さん。実はこの句、著者の福井隆子さんによると退院をされたご夫君への思いを一句にされたのであるという。「ただのおのろけではないのよ」と福井さん。「いいではないですか。おのろけでも素晴らしい」とわたしは申し上げたのだった。 今日付の讀賣新聞の「枝折」には、大関靖博句集『大蔵』がとりあげられている。 俳誌「轍」主宰の第七句集。あとがきに「俳句は志と思と詩の三位一体のもの」と書く。〈落葉して世界の天地入れ替る〉評論「芭蕉と華厳経」も収録。 「俳句」11月号では、西村麒麟さんが『森田峠全句集』などをとりあげて俳人・森田峠について懇切丁寧に評しておられる。 「『森田峠全句集』はまちに待った全句集です」と書かれているように森田峠という俳人にいかに心惹かれているか、その心の弾みがつたわってくるような文章である。青畝と峠をくらべてみたり、いろいろな角度から峠作品を検証しておられる。実は西村麒麟さんには、「ふらんす堂通信171号」にても、『森田峠全句集』を読むと題して「森田峠論」をお願いしている。今回の俳句時評と比べて読むのも面白いかもしれない。楽しみにしている。 銀行の帰りに花屋さんでみかけた南瓜たち。 ハローウィンの季節となったのかしら。。。 今日写真で紹介した蜘蛛、ふたたびやって来てわたしの机を歩き回っている。パソコン画面を這っていたかとおもうと、裏にまわったり、相変わらす素早い動きを見せている。 ここが気に入ったのなら、私は飼おうと思っているのだが、飼うって、どうするのよ。。。。 放っておくのが一番、そして好き放題にさせてやること、かな。
by fragie777
| 2021-10-25 18:22
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