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10月7日(木) 旧暦9月2日
神代水生植物園の蕎麦の花。 ベンチに坐って眺めながら、これでどのくらいのお蕎麦が食べられるのかしらってぼんやりと眺めていた。 唐突なのだが「かくれんぼ」をしていて、上手に隠れ見つからない最後のひとりとなったとき、見つけて貰えずに友だちに忘れられ、みな当然のごとく帰ってしまったとしたら、どれほど悲しいか。。。ってふと思った。 本当に忘れられたとしたらもちろん悲しいが、意図的に忘れられたことにされたらこれはもう絶望的だ。 こんな体験を子どものころにしたとしたら、きっとわすれられない心の痛みとなって残る。 お昼にパンを食べながら、楽しくかくれんぼをする子どもたちをパソコン画面で見ていてそんな風におもってすこしへこんでしまった。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装 192頁 二句組 著者の山崎雅葉(やまざき・がよう)さんの句集『一念』に次ぐ第2句集である。山崎雅葉さんは、昭和8年(1933)秋田県横手市生まれ、現在も横手市にお住まいである。「河」「人」「みづうみ」などを経て平成4年(1992)「青嶺」に入会。平成14年(2002)青嶺賞受賞、平成15年(2003)横手市芸術文化功労賞受賞、平成27年(2015)秋田県芸術文化章を受賞。「青嶺」同人、俳人協会評議委員。日本詩歌文学館振興会評議委員など秋田を中心として多くの俳句関係の役職につかれている。本句集は平成18年より令和3年までの15年間の作品を精選収録したものであり、「青嶺」主宰の木附沢麦青氏が「序に代えて」を寄せておられる。俳誌「青嶺」に取り上げて鑑賞しているものを収録したものである。何句か紹介したい。 稲藁を焼き天日を脅かす (「青嶺」平成20年1月号) 地球温暖化とかかわりがあるとは考えられないが、「天日」を脅かすように稲藁を焼いている景が見えて来る。米所秋田なればこそだろうが、この煙が「公害」として騒がれるようになって来ている。米の減反に次ぐ減反、あちら立てればこちら立たずと言う諺のように、日本の農政は混迷を続けて来ている。十年後の日本農業はどうなっているのだろう。 そうしたことを背景にしてこの句を読むと、天日こそが怒っているように感じられて来る。 杉花粉世の大敵とうとまるる (「青嶺」平成29年7月号) 「杉花粉」が今のように騒がれる前はどうだったろう。あやふやな記憶で自信もないが、「花粉症」という言葉すら無かったように思う。戦後、「杉」を沢山植樹したのでその杉が大量の花粉を飛散させているという。秋田杉の主産地ではどうだろう。他県に比べて「花粉症」の患者が著しく多いのだろうか。雅葉さんのこの一句、はしなくも私の素朴な疑問に明快に答えてくれている。この問題は秋田一県の問題ではなくなってしまったということにな る。 句集名「米寿戯れ歌」からもわかるように著者の山崎雅葉さんは、今年米寿(88歳)を迎えられた。それを記念しての句集の上梓である。 日の匂ひ忘じてをりし雪の景 木製の匙置かれある木の芽和 稲藁を焼き天日を脅かす 校門の古りたる桜紅葉かな 風の声聞き分け野火に対しけり 下萌を踏まずと跳んで身の軽し 担当の文己さんが好きな句である。「実は、山崎さんよりお願いされたので、章題・帯句は私の方で選びました。」と文己さん。 目次の章題は文己さんがつけ、帯裏の10句は文己さんが選んだものであるということ。上記の句はその10句のうちより文己さんが選んだ句である。 日の匂ひ忘じてをりし雪の景 雪国にお住まいの山崎氏である。秋田の横手といえば「かまくら」で有名だ。それほど雪深いところなのである。そんな雪一色の雪景色を目の前にしながら、「日の匂ひ」を忘れてしまっているという句意であるが、雪国にお住まいの人にとって「お日さまには匂いがある」のである。どんな匂いなのか、雪がとけ始め陽ざしがあたり一面に挿すようになるとびっしょりと濡れた生あるものから蒸気が立ち上る、そんな時に日向の匂いがする。それは雪深い地方ではなくては嗅げないような独特に匂いをはなっているのだろう。そんな匂いも圧倒的な積雪をまえにしたら、いったいどんな匂いがしていたのだろうかとすっかり忘れてしまったのだ。これから長い雪国の暮らしがはじまる。日の匂いはどんどんと遠いものとなっていくだろう。 下萌を踏まずと跳んで身の軽し 春がやってきた。雪から解放されるのだ。そんな喜びが一句から立ち上がってくる。よっぽど嬉しいのだ。とても米寿を迎えた人間の動作とはおもえないほど若い。あるいはご本人ということでなくても、早春を軽やかに駈けていく人のあるいは子どもの様子が立ち上がってくる。重いコートを脱ぎ捨て、軽やかなものを身にまとい駆け抜けてゆく北国の若者たち。 雪囲ひ疎に見せかけて粗にあらず 「雪囲」が季語である。雪国で風雪の害をふせぐために、庭木などや家回りなどを薦(こも)や竹などで囲うこと。これは上手にできれば北国人として一人前か。一見粗っぽくつくっているように見える雪囲いであるが、じつは用意周到につくられているのだということが、雪国に暮らす人にはわかる。というか山崎雅葉さんの目はそれをするどくキャッチする。〈先代の技倆しのげる雪囲〉という句もあって、雪囲の技術は代々その家に伝えられるほどの奥義があるのかもしれない。山崎雅葉さんはその先代からの技倆ををしのいで雪囲をしつらえてみせるのだ。そうなのか、それは自慢していい技倆である。 十薬をはびこらせ人おとろへし これは都会暮らしをしているわたしにも思い当たることである。住宅街をあるいていて十薬の花が家のまわりにはびこって家が痩せているようにみえる家がある。たいてい老人の一人住まいだったりして、家のそのものが心細さそうにしているのだが、十薬の勢いは衰えることをしらない。にぎやかに席捲している。どういう風に玄関までたどり着くのか、いったい人が住んでいるのか、いや住んでいるのだ、そんな家があちこちに見られる昨今である。生きるエネルギーが十薬に吸い取られてしまっているかのようにその家は深閑として確かにいるはずの人の気配を消している。 校正者のみおさんは、「校正しながら、秋田県を満喫しました。」ということである。 この句集『米寿戯れ歌』は、平成十八年に出版しました私の第一句集『一念』に続くものです。『一念』の折りは第二句集のことなど思いもよらなかったはずですが、長生きをさせて頂いたおかげで、こうして句業を整理出来ましたことに今は唯々感謝致しております。 「俳句初一念」の思いで歩み続けて来ましたが、昭和一桁生まれですので米寿を迎えることが出来ました。昭和、平成、令和と三代を生きて来た訳ですが、この齢になって見ますと、私の俳句にも「戯れ歌」的な面が見えるようになりました。これからは「一念」は一念としながらも、俳諧味に浸りたいものと考えております。 この句集は『一念』以後の中から、木附沢麦青先生の再度の選にかなったもの三百余句を収めたものです。(略) 米寿から先は、天寿、天年を全うするべく自然体で生きたいものと念じております。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 装釘は君嶋真理子さん。 躍動感のある装釘だ。 表紙。 見返しにはキラのある用紙を。 ご本人の近影である。 捨て苗のはばかりつつも色深む 弱者に対する温かい目を感じる句である。「はばかりつつも」と見る心根こそ、俳人に欲しいものである。 この後は『米寿戯れ歌』の境地を、さらに深められ一市井人としての哀歓を淡々と披瀝して頂きたい。 (木附沢麦青「序に代えて」より) 年用意拱(こまね)くことに終始せり 若水を汲みて父権を自認せり 後半におかれたこの二句を見て、ちょっと笑ってしまった。何にもしないでお正月をむかえて、「若水」を汲んで一家の長であることを自負する。まったくいいとこ取りではないですか。お幸せなんですね、山崎雅葉さま。
by fragie777
| 2021-10-07 19:30
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