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9月10日(金) 二百十日 旧暦8月4日
曇り日の川。 曇り日の鴉。 今日は久しぶりの青空である。 やはりこうでなくっちゃ。。。 歩いて出社しようと思ったが、十時に歯医者の予約があったことを思いだし、玄関を飛び出し車に乗り込む。 今日は歯医者に行って皮膚科に行ってと、ちょっと慌ただしい。 歯医者も皮膚科の医院も仕事場から歩いて5分もかからないとことにあるというのは考えてみればとても便利である。 わたしはけっこう便利なところに生活しているのかもしれない。 新刊紹介をしたい。 四六判変型ハードカバー装帯あり 370頁 歌人・川野里子(かわの・さとこ 1959年生)さんの日記と短歌による一冊である。2020年の1月1日から12月31日までの一年間をふらんす堂のホームページで毎日連載していただいたものが一冊となったものだ。 すでに内容についてはTwitter上などで話題となっている本書である。 二〇二〇年という年を後年の人々はどのように振り返るのだろう。何事もなく始まった新年は月末には新型コロナウイルスによるパンデミックに吞まれていった。近かったはずの人も場所も遠くなり、グローバルだったはずの世界はあっという間に鎖国していった。 私自身の生活を振り返れば、一月初旬から中旬かけてマレー半島を旅したが、帰国してのちそこはとんでもなく遠い場所になった。今もなおあらゆる場所が途方もなく遠い。近所の友人のあの居心地の良い居間でさえ。これほど簡単に世界は変わるのか、そして次に何が起こるのか、目を見張ったまま過ぎた。今もなお驚いたままだ。そんななか、日記形式で短歌を作ることは私にとって思いがけない冒険となった。 「あとがき」を紹介した。書かれているように、まさにこの2020年という年は新型コロナウィルスの蔓延によって世界が大きく動揺し脅かされた年であり、いまもなおそのことから解放されていない。ウィルスが人間社会を脅かしていくその不穏な感触がまさにこの日記には記されている。それはとりもなおさずわたしたちに不安でもあり脅威でもあった。本書を読むことによって、その時のわたしたちの得体の知れない不安が蘇る。 2月29日(土) さりさりさりさりさりさり見えぬ蚕ゐてマスクする人すれ違ふ街 街がだんだん白くなる。みんなマスクをし、心に綳帯をして歩いている。誰かが咳をすると皆がその人を見る。 4月24日(金) 握手して別れた時から何年目だれにも触れぬてのひら洗ふ 最後に人と会ったのはいつだったろう? 飯田橋駅の改札の前で握手して、その手をじゃあね、と挙げて。掌は今、洗うためにある。 マスクと手洗いが日常の必須事項として加られ、洗剤と消毒液で荒れた手をみつめる日々だ。 非常事態の日々であっても、川野里子さんには大切な日常がある。 そんな日々に向き合う川野さんの眼差しは高く、広い視野をみわたし、どこか晴れ晴れとしている。歌人として対象に向き合う心はダイナミックにして繊細。解放された風通しの良さがある。 5月14日(日) 蜘蛛の糸きらりきらりと飛びゆけり糸もたぬ吾は太陽の下 昆虫には生きてゆくための道具が多い。兜虫の角。蜂の尻の針。カメムシの匂い。蓑虫の蓑。蝶の美しい羽根。カマキリの鎌。ゴキブリの触角。すべての虫が持つ保護色。 78月1日(土) 泉のやうに老衰の母のありしこと含み笑ひなにか想ひゐしこと ゆきこさん。母を看取った最期の日々のことをよく思い出します。身動きできず、食べることもなく、しゃべれなくなった母はただベッドに横たわっていました。そこにただいて欲しい、そう思う人がいて、その人のために生き続ける、そんな愛もあるような気がします。 「ゆきこさん」なる人物がときどき散文に登場する。わたしは本書を読みはじめたときは、架空の人物であって、川野さんが呼びかけたいわたしであってあなたであるのかと思った。しかし、架空の方ではなかった。このことについて、著者は「あとがき」にこんな風に記す。 詞書に登場してくれたゆきこさんは、現実の友であり、また私の心に潜在していた人懐かしさの形象でもある。あらためてたったひとりのゆきこさん、そしてたくさんのゆきこさん、一緒に居てくださって有難うございました。 実はこの「ゆきこさん」、ふらんす堂にお電話をくださってこのご本を纏めて数冊ご注文くださったのだ。最初は本をもとめるお客さまと思ったのだが、Pさんが対応しお話をしていくうちに本書に登場する「ゆきこさん」であることが判明。Pさんはすっかり興奮してしまう。「ゆきこさん」もこの「短歌日記」」を連載当初から毎日見てくだっていたということ、写真があるのが心を癒やされたとも言ってくださった。 もう少し紹介をしておきたい。 本書の日記の部分の短文を川野里子さんは「詞書」と書いておられるが、この「詞書」がなかなかふるっていて、まるでアフォリズムのようだって思うときがしばしばあった。たとえば、 10月26日(月) 一本の滝あるやうに秋の陽をあびてバス待つ痩身のひと 見知らぬ人は風景になる。見知った人は物語になる。 11月2日(月) カーテンに黄金虫ひとつしがみつき死んでゐるなりただいま空き家 一日目は空き家、二日目は記憶を拾い、三日目は布団を干し、四日目はゴミを出し、五日目に実家になる。 まさに「決まってる」という感じ。 短歌のみならず、こんなアフォリズムがちりばめられた宝石箱のような書物である。 本書の装丁は和兎さん。 写真ではわからないが、文庫本サイズをややおおきくしたような小さな一冊である。 しかし、装釘は凝っている。 カバー、帯、表紙、見返しすべて同じ用紙をもちいた。 このアルマジロの図案を川野さんはいたく気にいられた。 集中、こんな短歌もある。 〈武装した小さなもの〉それは私だと思へばアルマジロのことなり そしてこの絵のアルマジロは「わたしに似てる」と川野さん。 スタンプになさりたい、ということで図案を担当のPさんは川野さんに差し上げたのだった。 表紙。 見返し。 扉。 鮮やかなブルーを配した。 各月の扉にもアルマジロ。 花布は扉のブルーに響かせてあざやかに。 金色のアルマジロが可愛い一冊。 作品は一週間前に提出することにしたため、この歌集での出来事はおよそ一週間遅れている。そういう現実とのズレが僅かな心の居場所となった。誰にも会うことなく首都圏の自宅と九州の山中の空き家を往復する生活は、思いがけない安らぎももたらしてくれた。激しく回転する遠心力の世界から静かな定点に向かって心が動いたようにも思う。(「あとがき」より) 12月29日(火) 保育器を充たすがにありし冬陽去り忘れ物なりわたしの身体 ゆきこさん、私達に授けられたものは良いことばかりではありません。でも愛おしいものは限りがありませんね。亡くなった犬の居た場所、お土産のマグカップ、姿を変え続ける欅、そして自分より大切なものさえある。このごろ、死が怖いのはこの世が愛おしすぎるからだと思うようになりました。 本書の担当はPさん ホームページで一年間担当し、本作りも担当した。 Pさんの感想をもらった。 「頑張って、楽しんで、良いページにできるようにしてゆきたいと思います。」 とメールを下さったのが連載が始まった一番最初に先生からいただいたメールの 言葉でした。 年があけたワクワクとした気持ちはすぐに「ダイヤモンド・プリンセス号」から 始まった新型コロナウイルスの事で不安な日々に変わっていしまいます。刻々とひどくなっていく日常を、短歌という詩形の中で、怒り、嘆き、そして改 めて人との繋がりの喜びを歌い上げた365首はどれも私の生活を詠んだように身 近に感じました。 コロナに振り回され、慣れない生活を送りながら「生きる」ということが剥き出 しになった1年を、川野先生に寄り添って泳げたことが心強く、嬉しく思います。 以下はPさんの好きな短歌である。 一枚の毛布のやうな夜空なり逢へない友とくるまつてゐる さくらさくら世界は閉ぢてゆくからに桜は咲きてほどけてゆけり アルコール吹きかけて見えぬもの消して消え残りたりわれの掌 色の本贈りくれ遠くゐる友よ瓶覗き色のなかにて逢はむ 両手もて茶碗を包むことありぬわが心臓を包むかたちに マスクして雪片のやうにすれ違ふ誰かの痛みに触れないやうに 『天窓紀行』の頁を捲っていると、人間の愚かさに嘆き、人間を嫌いになりそう になりながら、どうしようもなく人というものをもとめた一年を思い出します。 とPさん。 人間はなんと激しい旅を続けていることだろう ある日の、詞書である。
by fragie777
| 2021-09-10 18:32
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