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8月26日(木) 旧暦7月19日
すっかり秋の景色である。 まさに「花野」。 今日はことさら蒸し暑い日であった。 午前中は、銀行まわり。 給与手続きをすべく銀行にいき、ソファーに腰掛けて待っていた。 銀行の冷房はここちよく、人もすくなく、わたしはいつしか深い眠りに入っていった。 「ふらんす堂さま、ふらんす堂さま」と何度か呼ばれてはっと我に返った。 「あっ、はい!」と飛び起きて立ち上がった。 わたしを呼んだ目の前の女性スタッフさんが笑っている。 どこででも寝る、という特技をわたしは持っているのである。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装帯あり 206頁 二句組 竹下喜代子(たけした・きよこ)さんは、昭和15年(1940)東京生まれ、現在千葉県八千代市在住。俳誌「いには」(村上喜代子主宰)同人。俳人協会会員。本句集は第1句集で、序文を村上喜代子主宰が寄せている。あたたかな心のこもった序文である。 以下に抜粋して紹介したい。 竹下喜代子さんを知ったのは、俳句を始めた当初からの友人であった水口楠子さんを通じてであった。同じ八千代市在住、名前も同じ「喜代子」ということからも親しみを感じた。平成十七年に「いには」を創刊した時、楠子さん共々入会してくださった。彼女は八千代市役所に勤務。結婚後も共働きで、子育ては同居する義母に協力して貰ったという。そのためもあってか理解ある夫や義母等に感謝の思いを忘れず家族をとても大事にする人である。(略) 病む夫の思ひは遠き春の山 菜の花や訪問医療てふ看取り 食べたいと夫言ふ葡萄ふた三粒 秋暁の旅立ち告げず逝きにけり 湯豆腐やゐるだけでいいそれでいい 夫が亡くなってからも喜代子さんは句会のたびに夫を偲んだ句を出しては名乗る時涙ぐむのである。冬となり湯豆腐を食べながら、やはり思うのは夫のこと。「おい」と呼んだ夫はもう居ない。存命の時は、口喧嘩をしたり皮肉を言ったりしたこともあっただろうが、逝かれてみるとそんな他愛ない日々が何と幸せだったことか、と思う。「ゐるだけでいいそれでいい」に籠められた喜代子さんの気持ちをここでくだくだと述べる必要はないだろう。 この「それでいい」を句集名にしたことからも喜代子さんの思いの深さを推しはかることが出来る。 句集『それでいい』は竹下喜代子さんと夫との心の通い合いを通して、私たちに改めて生きていることの意味を考えさせてくれる。普段は他愛ないことで諍ったり反目したりするが、亡くなってはじめて生きて側に居てくれる有難さが解る。まさに「ゐるだけでいいそれでいい」のだ。 序文によれば「いには」創刊からの同人である。 栗饅頭今日は年賀の顔で来る 象の背の思はぬ高さ春日傘とつぷりと初湯に浸り国憂ふ 茹卵こつこつ春の動き出す アルプスの石の詰まりし登山靴
雨は白銀をだまきに宿りては 気に入りの靴磨き上げ春を待つ 担当の文己さんの好きな句である。 茹卵こつこつ春の動き出す 台所で卵を茹でているのだろう。静かな気配がある。いまこの句を選んだ文己さんと話をしていたのだが、この句は鍋のなかで茹でられていく卵が動いてコツコツと音を立てている、その音を聞きながら、ああ、春なんだと春を実感したという解釈と、あるいは、茹で上がった卵をとりだしてコツコツと叩いて割る、その音を聞きながら春の気配を感じた、その二つの鑑賞ができるということだ。文己さんはどっちだと思ったと聞いたところ、前者、わたしも実はおなじ。文己さんとの会話を聞いていたPさんは、どっちもいいですねえ。と。そして「いい句ですね」と。どっちの意なのかご本人に聞いてみないとわからないがどちらの解釈でもいいとわたしも思うのだけど、あなたはいかがですか。 亀鳴くや子はさばさばと家を出づ これはわたしの好きな一句であるが、この句もやはり「家を出づ」がやはり二通りの解釈ができると思う。つまり、「お母さん行ってくるよ」って外出する意味と、独り立ちの意味をふくんだ「家を出づ」という意味。わたしは後者の意味にとって良い句だと思った。どうしてそう思ったのかなというと、この「亀鳴く」の季語がいいと思ったのだ。「さばさばと」親元をはなれていく子どもを嬉しく思う反面、どこかさびしさがある。その気持ちに呼応しているのが、この「亀鳴く」という季語であると思う。鳴かないはずの亀の鳴き声が人の心にそっと入り込んでくるような、とらえどころのないしかし味のある季語。ほかのどの季語をおいても、作者の微妙な心持ちは詠み得なかったのではないだろうか。 ひぐらしの鳴き止むもまた寂しかりけり ちょうど今頃、夕方など木立にそって散歩をすると、蜩がさかんに鳴いている。かなり強い音で襲ってくるように鳴いているときもある。たくさんの蝉声のなかで際だっている鳴き声だ。そして激しく鳴いても、いや激しく鳴けば鳴くほどさびしさを感じるひぐらしである。身体にさびしさが染み込んでくるようだ。この句を読んで、はたと思った。そう、そのさびしさの極みのような蜩の鳴き声がぱっと止む。あたりは静けさが支配する。しかし、そのしみじみとした静けさがやはりさびしさを呼び起こす。この句、一気によみくだし、そしてさびしさの余韻を残す。 人参の嫌ひな人と共白髪 この一句をみてちょっと笑ってしまった。いいな、この関係。竹下喜代子さんにおいては、この「人」はご主人である。そのすこしあとに「湯豆腐やおいと呼ばれて五十年」の句があって、これも「おい」と呼ぶ人はご主人。登山大好きな山男であった。すでにいまは亡き人であり、「それでいい」という句集名となった句にも詠まれている人である。俳句をとおしてお連れ合いを語っている竹下喜代子さんであるが、その語り方がすごくいい。相手の存在をまるごと受け入れていくそんなおおらかな関係をつくりあげてきたのだろう。長年ともに生きてきたご主人をあたたかくユーモラスに受け止めてきた竹下さんである。 昨年夫、勇が八十四年の生涯を閉じました。何時かこんな日が来ることは解ってはいましたが、実際ともなると想像していた以上に辛く悲しいものでした。夫は知ってか知らでか、私の俳句の恰好の題材となってくれました。 この度、句集を刊行しようなどと大それたことを思い付いたのは、夫の死に直面し今まで気にもしなかった夫の優しさ、頼もしさにあらためて気付かされたため。また、生前夫が、お前が先に逝ったら句集を出してやる、などと言ってくれていたことを思い出し、その気持ちに報いたいと思ったためです。思い切って村上喜代子主宰に相談してみましたところ、先生は快く応じて下さり、良い句集になりますよ、作りましょうねと言われ、不安が和らぎました。とは言え、本にすることに何の知識もない私に、先生はどんなにかご苦労されたことと思います。いろいろ細かくご教示くださいました。身に余る序文までお書きいただき、心から感謝申し上げます。 また、句会を共にしてきた俳句の仲間、そして応援してくれた子供たち、みんなに声を大にしてお礼を申し上げます。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 装釘は君嶋真理子さん。 装丁はできるだけシンプルに、題が際立つようにとのご希望でした。 趣味で絵を描かれたりもするそうで、色彩にもこだわりがありました。 と担当の文己さん。 君嶋さんによって、著者のこだわりをうまく生かしたブックデザインとなった。 ひらがなの字のみ、というのはむずかしいのだそうである。 すっきりとしたデザイン。 カバーをとった表紙。 扉。 この一書は亡き夫に捧げられたものであると共に、この句集に収められた数々の句はまた遺された家族の絆をいっそう深めてくれるに違いない。思い出すことは最大の供養という。 この句集上梓をきっかけに喜代子さんは新しいステップに飛び立つであろう。(序・村上喜代子より) 軽井沢吟行のときに、村上喜代子主宰を囲んで。 竹下喜代子さんは、村上主宰のむかって右隣である。 8月22日が旦那様の一周忌でした。間に合わせることができてよかったです。 と担当の文己さん。 いまはいろいろな方からのご反響があって、嬉しい日々であるということです。 竹下喜代子さま、 第1句集の刊行を機に、さらなるご健吟をお祈り申し上げております。 「輪ゴムって買ってあります?」とパートのTさんに尋ねた。 「ああ、あると思います」って言いながら、Tさんは備品のいれものをいろいろと捜している。 「あれー、あると思ったのだけど、ないなあ」とあっちこっち捜してくれている。 が、どうやらないようだ。 「今度取り寄せておきます」とTさん。 しかし、5分もしないうちに「ありました!」って持ってきてくれた。 「輪ゴムというと、あの黄色と茶色の函にはいったのを捜していたので、ちょっとわかりませんでした」って。 手渡されたのがこれ。 あら、まあ、ほんと。 わたしもあの「輪ゴム」の入れ物を想像していた。 思うに輪ゴムってアナログ的な(?)グッズだけど、過去も今も未来もけっしてかわることのないわたしの人生にはないとこまるものだ。 これに代わるものって、考えられます? なつかしくてたよりになるヤツ、 である。 21世紀でもひそかに頼りにされていくだろう。
by fragie777
| 2021-08-26 17:58
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