カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
8月23日(月) 処暑 旧暦7月16日
神代植物園に咲いていた向日葵。 この向日葵はじっと見ていると顔のようにみえてくる。 なにやら宇宙人のような。。 大方の向日葵は俯いて立っていたが、なかに顔をあげてるものもあった。 今年になってこれぼどたくさんの向日葵を見たのははじめてかもしれない。 今日の讀賣新聞の「枝折」に、『鈴木明全句集「今日」』が紹介されている。 5月に亡くなった俳人の持ち味は力強さとウイット。逝去前日、届いた見本を喜んだという。函入りの造本も美しい。 死ぬ死ぬと言い死なぬ俺冬青空 鈴木 明 今日はえらい寝坊をしてしまった。 まず、目覚ましで6時半に目覚めた。 ああ、この時間に起きればいろいろなことできるな、起きよう。と思った。 ところが、 次ぎに目覚めたのがすでに8時半を廻っていたのである。 嘘でしょ、一瞬おもった。 7時、7時半の目覚まし(iPhoneにセットしてある)はいったいどうしちまったのだろうか。 「おおねぼうだよ」って日向子に声をかけながら、わたしは飛び起きて転がるように階下に向かった。 どうも、このところいろんなことが抜け落ちてしまって、昨日のバッグ置き忘れ事件といい、じつは、その間約束事をすっぽかし事件もやらかしているのである。しかも二度目。 こんなことでは、きっとおおくの人に呆れられ、見放され、だれもわたしを信用しなくなってくる。。。。。 ああ、どうしよう。。 落ち込むのだけれど、すぐに忘れるyamaokaである。 どうしららいいと思います? 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装帯あり 104頁 作者の渡辺鮎太(わたなべ・あゆた)さんは、すこし前にふらんす堂から第3句集『蟇』を上梓された俳人である。 この度は、いままで書き溜めていた芭蕉の弟子たちについての論考を一冊にして上梓された。 14人の芭蕉の主だった弟子たちが登場する。頁数も多くなく、ゆったりと組まれているものでたいへん読みやすい。弟子たちひとりひとりについて、その作品を評しながら端的にまとめておられるので、芭蕉の弟子について知るための入門書となるものだと思う。しかも、実作者のひとりとしてその俳句態度への言及があり、なかなか手厳しい批判もあってそれぞれの代表句や人間性がきわだつ一冊だ。 著者による「まえがき」がある。短いものであるので、それを紹介しておきたい。 この拙文は、芭蕉の門弟たちの発句の一部を取り上げて鑑賞、評価しつつ、批判も含めて綴っていくものである。同じ蕉門と言っても様々で、生涯にわたって芭蕉を敬慕して随順した人、発句自体を芭蕉の発句観とは異なる作り方をした人、芭蕉の没後に師を批判した人、芭蕉の論に反する主張をした人、途中から蕉門を去って芭蕉をあからさまに誹謗した人、等々……。こうした流れを追っていくと、芭蕉の時代の俳人の有りようが見えてくると思う。 なお、俳諧の「連句」については論じない。飽くまでも、蕉門の人々の発句と来歴だけを見ていく。それだけでも、元禄を中心とする芭蕉の時代のことが偲ばれると思うものである。 とりあげている弟子は14人、順序どおりに紹介すると、「其角」「嵐雪」「杉風」「野坡」「凡兆」「羽紅」「去来」「丈草」「支考」「千那」「許六」「尚白」「惟然」「路通」である。 このブログを読んでおられる方はこれらの芭蕉の弟子たちを全員ご存じだろうか。 そして、ひとりひとりの代表句などを知っておられるだろうか。 わたしは一昨年に刊行された髙柳克弘著『蕉門の一句』をたいへん面白く読んで、少しは弟子たちを知ることができたのであるが、本書はその弟子たちごとにそれぞれの紹介があり、代表句の鑑賞、芭蕉に対してのスタンス、その生涯、などを簡潔に記してあって蕉門の弟子たちの情報を整理するのにひじょうに役立った。面白いのは、著者の渡辺鮎太さんの率直なる視点で、其角などはこっぴどく叩いて書かれている。ここまで批判するか、と思うのだが、おなじ俳諧にかかわるものとして、その態度を厳しく問題にするのだ。ひとりひとりについて、著者がどう批評しているかをここで紹介できれば良いのだが、それはこの一冊を読んでもらうこととして、ここでは、そのやり玉にあげられた其角についてすこし紹介をする。 榎本其角(のちに宝井氏、一六六一~一七〇七年)は医師の子として江戸に生まれ、十四、五歳の頃に芭蕉の弟子となった。一六八三年(天和三年)には『虚栗』を編み、一六八六年(貞享三年)には、わずか二十六歳で俳諧宗匠として立机し、『続虚栗』『いつを昔』『華摘』などを相次いで刊行。その後も蕉門の重鎮としてあった。彼は、四十半ばで死去した。若死にである。長寿したという誤解が現今、うやむやに存在しているので敢えて付言しておく。其角は、後の与謝蕪村、小林一茶にも大きな影響を与えたという。 師芭蕉没後には、談林風に逆戻りしたかのような、享楽的・技巧的な、いわゆる洒落風を示し、「江戸座一派」の祖となった。 著者の渡辺鮎太さんは、其角を評して、「問題は、句自体が前書なしでは成立しないという、作品としての不完全さ・拙劣さであり、普遍性・独立性のなさである。更に、呪文を唱えるような芝居がかったことをし、尚且つ、それを自撰句集に誇らしく書き残す其角の精神の有りようである。」ということを記している。そして前書きなしには読めない俳句をいくつかあげて、それを実証する。其角にはほかにもいろいろな点でたとえば「自賛の句」など肯えないところがあり、「前書やこうした自賛の言葉を見ると、もしかしたら其角は親切心・サービス精神の旺盛な人であったのかも知れない。そして、だからこそ人望も人気もあったと想像することができる。もしそうであったとしても、それは結論的に言って本来の俳諧精神とは関係のない美徳としか言えない。凡そ俳諧は周旋力・政治力・タレント性などとは全く逆のベクトルに価値を置く文芸である。彼はそんなことは承知の上で実践できなかったのであろう。」と批判するのである。さらに論じて、(実は其角について割かれた頁がいちばん多いのである)「十代に芭蕉の弟子となったということが彼の最高の幸運であった筈である。にもかかわらず、その幸運を作品において活かせなかったところに彼の最大の不幸もあったのである。後世に残るのは普遍的な意味での作品だけであるということを、彼の生涯は逆説的に示している。その意味では教訓として極めて貴重な存在ではある。」と結論づける。まことに手厳しい。 つぎにおかれた「嵐雪」の項のはじめに著者はこのように自身の蕉門の弟子たちを論ずるスタンスを語っている。 大事な箇所なので紹介をしておきた。 嵐雪について語る前に、この拙文に於ける筆者のスタンスを再び敢えて確認しておきたい。それは決して、古俳諧を研究することでもないし、ましてや古句に関して新しい発見や見解を提示しようとすることでもない。 筆者は、現在まで「俳句」(発句)というものと関わってきて、この古い文芸そのものに関しても、またこの古い詩形に纏わりつく様々な要素に関しても、その有りようを「化け物」のように感じる時が多かった。そして、この化け物と自分の人生のなかで、どのように折り合いを付けてゆくべきかに戸惑うことも多かった。 そんな筆者が興味を持つのは、「古人はこの化け物とどのように付き合っていたか」ということである。 つまり蕉門の弟子たちを論ずるのは、俳句に向き合う姿勢を学びとりたいということなのだ。あくまで俳人としての自身の問題なのである。 凡兆についての項より紹介したい。 初潮や鳴門の浪の飛脚舟 凡兆 (略) 凡兆の発句を見ていると、「創作とは何か」ということを考えさせられる。発句とは、一幅の美しい絵のように人工的とも思えるほど見事な一世界・一大乾坤を造立できればよいというものではなかろう。その世界が如何に美しく魅力的であっても、「作り物」と分かってしまっては、少なくとも発句としては艶消しなのである。 更に敷衍すれば、発句の創作とは写生・切れ・諧謔などが効いていればよいというものでもない。つまり、大切なのは方法論でもないし、技巧でもない。 この世に生まれて発句という「化け物」に出会って結んだ「自身と発句の関係」を、可能な限り自然さを保ちながら、深く濃く、また或る意味では軽く快く位置付けて、「自己と発句の折り合いの付け方」を慥かなものにし、「自己の発句」というものを自得しなければ、発句と関わっている意味は本当のところでは皆無と言ってよい。このことは、当然ながら他の文芸や芸術でも同じである。 そして、更にその向うにある「自己を超えた大きく深く遠く、眼には見えない世界との交流」などというものは、この「自己と発句」の確固たる把握の先の先にしかないであろう。(略) 捨舟のうちそとこほる入江かな 凡兆 「うちそと」がよい。晩年の凡兆の人生観照・境涯が込められた句であろう。このように、最晩年に至って初めて凡兆の「おのれ」が句のなかに表われていることが痛ましく、悲惨ですらある。 じつはわたしは髙柳克弘さんの『蕉門の一句』を読んだかぎりにおいて、丈草の俳句が一番すきだった。その「丈草」について、渡辺鮎太さんはどう書いておられるか。 内藤丈草(一六六二~一七〇四年)は、尾張の国(愛知県)犬山藩士の長子として生まれ、十四歳で出仕し、漢学を修め、参禅したりもした。一六八八年(貞享五年)、二十七歳にして病気を理由に武士を辞めて遁世して京都に入った。「丈草」は僧名でもある。一六八九年(元禄二年)に京都の落柿舎において芭蕉に入門。二年後の一六九一年(元禄四年)の「芭蕉円熟期の撰集」とされる『猿蓑』に漢文の「跋文」を書くほどに重用された。 大阪での芭蕉の終焉の際にその病床に侍し、師の没後には三年間の喪に服し、琵琶湖のほとりの膳所の無名庵に籠った。更に、近くに仏幻庵を結んで、孤独な侘び住まいの日々を送り、一七〇四年、四十三歳で清貧のうちに死去した。 彼の作風は、その孤高にしてひたすら清貧な生活態度を反映して、蕉門のなかで芭蕉の「寂(さび)」の境地に最も近い風を示したとされる。その一方で洒脱な一面も見受けられ る。随筆に『寝ころび草』、句集に『丈草発句集』がある。 (略) 俳諧の発句という「化け物」と付き合うなかで、如何に身を処すことが「幸せ」なのであろうか─。丈草の生涯を見ていると、そんなことを考えてしまう。これまで筆者は、其角、嵐雪、野坡、凡兆らの蕉門の人々の生き方の片鱗を見てきた。 この作業のなかで、丈草が最も幸せであったと確信するようになった。(略) 淋しさの底ぬけてふるみぞれかな 丈草 木がらしの身は猶かろし夢の中 〃 余談ながら、丈草の小さな墓は現在、師芭蕉の墓から程近い膳所の「龍が丘俳人墓地」の中に、「経塚」や他の蕉門の俳人らの墓とともに建っている。国道の端に車の排気ガスの臭いに苛まれながら─。 本書の短いながらの「蕉門の人々」において、その俳人たちは今風の言葉で言えば、キャラが顕って語られている。だから面白い。ハンディな「蕉門入門」となり得るものだ。そして実作者としてのスタンスで読み解くことによって、自身にとっての俳句とはなにか、というその問からはずれることがないのだ。そこが単なる研究書とは異なる魅力となりうるものだ。 以下は、担当の文己さんの感想である。 古人の句は意訳がないと読み解くのが難しいので大変勉強になりました。 サービス精神旺盛な其角、武士の誇りを持っていた去来、それぞれの発句から読み解く門人たちの人間性も面白かったです。 本書の装丁は君嶋真理子さん。 すっきりした一冊となった。 男性の本に紫を基調とすることは、これまでの経験上あまりないのであるが、今回の場合、それがおしゃれでこの紫は渡辺鮎太さんによく合っている。 今回、蕉門の十四人の発句と生涯を見てきて、時間的に元禄を中心とする時代が見えた思いがする。更に、空間的に江戸、尾張、美濃、京都、近江などを旅し得た気がする。 筆者なりに、楽しい執筆活動であった。(「あとがき」) ふたたび帯にもちいられた、「まえがき」の一文を紹介しておきたい。 同じ蕉門と言っても様々で、 生涯にわたって芭蕉を敬慕して随順した人、 発句自体を芭蕉の発句観とは異なる作り方をした人、 芭蕉の没後に師を批判した人、芭蕉の論に反する主張をした人、 途中から蕉門を去って芭蕉をあからさまに誹謗した人、等々……。 こうした流れを追っていくと、芭蕉の時代の俳人の有りようがも見えてくると思う。 芭蕉の弟子たちを理解するための格好の入門書として、おすすめしたい一冊である。 向日葵畑に隣接していた糸瓜棚。
by fragie777
| 2021-08-23 20:24
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||