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7月30日(金) 旧暦6月23日
今朝の珈琲。 渋みも酸味も香りもいい感じに淹れられた。 テーブルの上に乗っている子はだあれ? きちんとしつけられている猫はテーブルの上には乗らない。 わたしの家の猫たちはすべてテーブルの上を闊歩していた。 家にやってきた人間が顔をしかめる、ということもあるけれど、わたしは平然としている。 愛猫・日向子は、漫画家の大島弓子さんのとこから貰われてきた猫なのだが(昨年死んだヤマトもそう)、大島さん家に貰いに行ったとき、大島家の猫たちも、そうグーグーもいた! 悠然とテーブルの上に乗っていてそれがなかなかいい眺めだった。 見習ったわけではないけれど、気づいたときはテーブルはわが猫たちの遊び場となっていた。 どうも総じてしつける、ということが苦手かもしれないと、猫との対応をみておもった。 で、いまさらではあるが人間の子どももちゃんとしつけてこなかったかもしれないと、ふっと思うこともあるけれど、そんなけなげな反省も一瞬の間のことで、たいていは目先10㍉ほどのことで奮戦する毎日であり、そういえば、昨日ぐちゃぐちゃにしたまま帰った仕事場のわが机が今朝出勤したら、それはもう美しく整えられたいた。ああ、昨日の夜中にコビトさんたちがやって来て、きれいにしてくれたんだわ、って思うことにしているので、お礼などは言ったりしない。こんなだから人や動物をしつけるなんてできゃしないのよね。 恥を知らずきわめて厚顔に生きております。 「ふらんす堂通信169号」が出来上がってきた。 「ふらんす堂通信」169号 発送は来週はじめになるということです。 小野あらたさんの「毎日精進」は、こんな一文ではじまっている。 世の中にはお化けや幽霊が見える人がいるらしいが、私もある意味で「見える」人なのかもしれない。 へえー。あらたさんは何がみえるんだろうって読んでいくと、ふ~む。なるほど、と合点がいった。 終わりに虚子の句〈秋風や眼中のもの皆俳句〉を鑑賞して、「わたしにだけしか見えないものを、大事にしたいと思う」と結んでいる。 なかなか味わい深い文章だ。 この「見える」というのは、相対的なものであって、だから、人それぞれに「見える」ものがあり、「見えない」ものがあるのだと思う.大事なのは自分にとって「見える」ものは何か、それを追求することでアイデンティティを獲得することにもなる。この「見える」「見えない」という問題、掘り下げると深いところまでいくのではないか。自身への新しい真実がみえてくる。 言ってみれば、机の上のぐちゃぐちゃもわたしには見えていないのだ。食卓の上の猫の足どうように。 じゃ、お前には何がみえるって、じつはここだけの話だけど、わたしの目には「イケメン探知機」が組み込まれているような気がするのよ。それはかなり性能がいいと自負(?)している。 あはっ、こんなこと自慢できるかなあ、、、、 そういえば、『ハムレット』にこんなセリフがあったけ。 民衆というのは判断力でなく見た目のよさで好き嫌いを決める。 わたし、本当にミーハーなんだって思う。 ところで、このブログを読んでおられるあなたにとって、「見える」ものは何? 余談ながら、「見えない」」ことを知ることも大事だ。 なにが見えてないか。 イエスは言う。 もし、あなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが「見える」と言い張るところに、あなたがたの罪がある。(ヨハネによる福音書9章41節) 「見える」「見えない」は、哲学的命題ともなりうるものだ。
by fragie777
| 2021-07-30 19:51
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