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7月21日(水) 旧暦6月12日
駐車場をおりたときの今朝の空。 雲の峰上手に死んでやろうかな 栗林千津 昨日は、角川文化振興財団による蛇笏賞、超空賞、角川俳句賞、角川短歌賞の授賞式が、所沢の角川ミュージアムで行われたということである。 蛇笏賞選者である片山由美子氏が、蛇笏賞受賞者である大石悦子氏とのツーショットを送ってくださった。 大石悦子氏(左)と片山由美子氏。 今の状況に鑑みて、受賞者、選者、関係者の方にかぎった授賞式であり、 昨年は授賞式が開催されなかったので、昨年の受賞者の方々と合同の授賞式であったようである。 受賞者の皆さま おめでとうございます。 授賞式が開催されましたこと、良かったと思います。 こころよりお祝いをもうしあげます。 と書いていたら、角川文化振興財団広報の木ノ内さんからプレスリリースが送られてきた。 各賞の受賞作は、下記の通りです。 第66 回角川短歌賞 田中翠香氏 「光射す海」( 50 首) 第 66 回角川短歌賞 道券はな氏「嵌めてください」( 50 首) 第 66 回角川俳句賞 岩田 奎氏 「赤い夢」( 50 句) 第 54 回蛇笏賞 柿本多映氏 『 柿本多映俳句集成 』 (深夜叢書社刊) 第 54 回迢空賞 三枝昂之氏 歌集 『 遅速あり 』 (砂子屋書房刊) 第 55 回蛇笏賞 大石悦子氏 句集 『 百囀 』 (ふらんす堂刊) 第 55 回迢空賞 俵 万智氏 歌集 『 未来のサイズ 』 (角川文化振興財団刊) 贈呈式の詳細につきましては、近日、角川文化振興財団の公式サイトにて動画の公開を予定しておりますので、こちらを ご覧ください。 →https://www.kadokawa zaidan.or.jp/ ということである。 是非にアクセスを。。。 新刊紹介したい。 四六判ハードカバー装帯あり 194頁 二句組 著者の櫨木優子(はぜき・ゆうこ)さんの前句集『みぎわ』につぐ第3句集である。櫨木優子さんは、昭和20年(1945)愛媛県生まれ、愛媛県大洲市在住。昭和54年(1979)の「狩」入会を経て、平成31年(2019)「狩」終刊により「香雨」(片山由美子主宰)入会。現在は、「香雨」同人。俳人協会幹事。 『忘れ水』は『水中花』『みぎわ』に続く第三句集です。平成十八年より令和二年までの作品の中から自選で三四〇句収めました。 六〇代から七〇代前半、いわゆる林住期の作品になります。老いが他人事であった頃には、見えなかったもの聞こえなかったことなど、自然や人事の襞が少しでも捉えられていればと念じて、集名としました。 「あとがき」を紹介した。老を意識するようになって見えてきたもの聞こえてきたものがある、と「あとがき」に記す櫨木優子さんである。それもまた俳句を作り続けてきたからこそのものであると思う。 てふの影てふに離れて遊びをり 音もなく蟻の往還にぎはへり三月の山に触れつつ雲移る ペン持てば時が濃くなる式部の実 美しくけふの滅びぬ春夕焼 紙干して真白き力生まれけり 担当の文己さんの好きな句である。 ペン持てば時が濃くなる式部の実 ものを書いたり読んだりすることが日頃から親しいこととしてある著者であることがわかる一句だ。ペンを持つという言葉が象徴するように読み書きは作者にとって格別な時間であり大切な時間なのだ。俳句に向き合う時間でもあり、あるいは自身の内面をみつめるそんな時間、濃密な時間である。「式部の実」は紫式部の実のことであるが、ここでは平安期の歌人紫式部や和泉式部を想起させる。「式部の実」の季語を配することで、ともにわれも表現者の一人である、そんな自負を感じさせる一句だ。作者の思いは眼前のみではなくはるか時間の流れをさかのぼった詩歌への思いでもある。たっぷりと豊かな時間だ。 ゆふぐれの顔してあふぐ桐の花 わたしの気になった一句である。この「ゆふぐれの顔」も意味ふかいものを思わせる。「ゆふぐれの顔」っていったいどんな顔と思ってしまうのだが、作者にとっては多分に心象的な思いがあるのだろうと思う、つまり「寂しい顔」か、しかし、「寂しい顔」と言ったら身も蓋もないし、いやもっとそこには、詩があるのだ。つまり「ゆふぐれの顔」だ。桐の花の薄紫色にひびきあうような「ゆふぐれの顔」。桐の花は作者にとってひとしお思いの深い花なのだ。「ゆふぐれ」と「あふぐ」の「ぐ」がしずかに心を打ち、余情を醸し出す。〈割烹着つけて集まり柿の花〉という句があって、こちらは庶民的な風景がみえてきて「柿の花」の季語によくあっている。主婦たちがあつまってこれから料理をしようかというのだろうか、活発に女たちのはたらく姿がみえてくる。ひろびろとした台所があって土間がある、そんな家にある日当たりのよい庭の柿の木にはと柿の花がまぶしく咲いているのだ。 花は花葉は葉で混みてシクラメン シクラメンのことを詠んだ一句。まことにその通りで、シクラメンはそのように咲いているが、一句になって本当にそうなのよね、って思うが、なかなかこんな風には詠めないとおもう。「花は花葉は葉で混みて」の措辞が巧みだ。シクラメンの盛りの時って、びっしりと隙間なくひしめきあっているが、葉の領分と花の領分は互いに侵しあってはいない。棲み分けが上手になされている。と散文で書くとこうなるが、俳句であれば「花は花葉は葉で混みて」とまことに簡潔だ。 十二月八日の空が井戸の底 この句、「井戸の底」の空を作者はどんな心持ちで眺めたのだろうか。十二月八日がゆるぎない。 竹西寛子の『詞華断章』は座右の書で、何度となく読んで帯も切れてしまいましたが、今でも読むたびに胸の奥に熱いものがこみ上げてきます。その中に「よくもあしくも、歌の鑑賞は読者の『時』次第」という一節があります。読者の「時」に寄り添うことの出来る作品は、作者が作者自身の「時」に誠実に向き合って生み出された作品である証左と思います。翻って、私は私自身の時とちゃんと向き合えて来られたのか、という思いに駆られてこれまでの歩みを振り返ってみたくなりました。 「あとがき」を再び紹介した。 本句集の装釘は、前句集とおなじ君嶋真理子さん。 前句集のタイトルは「みぎわ」、この度の句集は「忘れ水」。 どちらも「水」を思わせるものだ。 おなじ「水」であっても、すこし意匠をかえたものにして欲しいとわたしは君嶋さんに頼んだ。 そして出来上がったのが本句集である。 かいつぶり眼くもれば潜りけり と櫨木優子さん。 櫨木さんは、上梓後の所感を送ってくださった。 ベテランばかりの超結社の会の、末席に小さくなって座した日より、茫々四十 数年の月日が流れた。創刊して間もない「狩」への入会を誘ってくれ、鷹羽狩行 を師とする幸運に結び付けてくれたのも、この会のひとりであった。愛媛県宇和 島市の「草の実句会」がなければ、今日は迎えられていない。 芭蕉の「物の見えたる光」や、波郷の「打坐即刻」、さらには茂吉の「実相観 入」などの至言に惹かれる私の作り方は、現場重視の写生派だ。景物と出合い、 心の振り子が振れた時ことばになる。見た、何かが見えたと感じる瞬間が、私に とってのこの詩形の醍醐味。目の前の光景は絶えず変化し、見ている自分の気持 ちもまた変化し続けている。今この眼前を形にしなければ、すぐに忘れてしま い、得難い邂逅もなかったことになるだろう。 毎年近くの城へ、蕾が膨らむ頃より桜を見に通う。年による遅速はあっても、 桜は同じように咲くが、同じではない。 櫨木優子さん 読初めの朱線に若きわれと会ふ この一句、どきっとした。いまのわたしの日常茶飯といってもいい。傍らの本をひらくとこんなことばっかりである。わたしの場合、いったいつどんな心持ちで線を引いたんだろうなんておもったり、こんなことに感じ入っていたのか、とか、線を引いてあるけど、わかってんのかなあとか、人間はいったいその人の生きている時間において進化しているのだろうかとちょっと複雑である。わたしの場合「若きわれ」はすこしばかり眩しい。。
by fragie777
| 2021-07-21 19:54
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