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7月20日(火) 旧暦6月11日
先日の国立・谷保へ行った帰りに咲いていた桧扇の花。 最初はだれも「ひおうぎ」なんて読めやしないけど、あまりにも読み方に飛躍があるので、一度学習するとたいてい覚える。 ケモノみたいだなって、この花をみるといつもそう思う。 本日の讀賣新聞の長谷川櫂氏による「四季」は、川崎展宏全句集『春』より。 百合の束担いで谷を落ち行けり 川崎展宏 ここに描かれてる百合は、野生のヒメサユリではないか、と長谷川氏。 昨日の毎日新聞の岩岡中正氏による時評「俳句のまなざし」に、上田睦子句文集『時がうねる』が取り上げられている。 抜粋して紹介したい。俳誌「若葉」に寄せた伊東肇氏の特別寄稿「花鳥諷詠俳句の社会的意義」に言及しつつ、「創作も植樹も社会参加であり、小さな実践を通して自我から自然へと心の向きを180度変えること(回心)による自己変革が、いま私たちに求められている」と記し、 他方、上田睦子『時がうねる』(ふらんす堂)のように、右の「俳句と社会」や「俳句と思想」よりさらに深い日常の「俳句と思索」のレベルから文学を考えることも大事。師・加藤楸邨や父・古坂嵓白にふれつつ、信仰、人間、生き方についての、まるで人文主義者のような省察に満ちた句文集である。 果つるまで野分を分けて行かんかな 上田睦子 7月5日付けの京都新聞では、彌榮浩樹さんが、ふらんす堂刊行の二冊の句集をとりあげておられる。こちらも抜粋となるが紹介をしたい。 新庄富美句集『一切合切』(ふらんす堂) 信貴山の毛虫またぎて来たりけり 藍たてて藍師の眠る良夜かな 立体的奥行を備えた鮮やかなイメージ。感傷を排した表現が生み出すカラリとしていなやかな風趣。これぞまさに俳句ならではの味わいだ。 (略) 一回転して萍の堰を落つ 風鈴に秋の音階石畳 「一回転」「音階」という、〈風景の核〉を掬い取る卓抜な把握、無駄なく引き締まった清潔な描写。日常の裏に詩的高貴さが重ねられている。 1939年舞鶴市生まれ、同市在住。「天為」同人。「うの会」会員。 涌羅由美句集『音色』(ふらんす堂) 手のひらにのるほどの靴春を待つ 真夜中の小児病棟咳響く 初めての口紅赤く七五三 出産・育児を軸にした日常生活での感慨やそこで出会った印象的な景が、童心をそのまま保ったようなピュアな言葉で伸びやかに表出される。 (略) ゆきあひの風を乗り継ぐ秋の蝶 蜘蛛の囲に光と風を編んでをり 「乗り継ぐ」「編んで」、単純は言葉遣いに見えるが、繊細な感覚が織り込まれた措辞の味わいは、豊かで深い。 1964年兵庫県生まれ。神戸市在住。「ホトトギス」同人。「円虹」会員。 今日の午前中に俳人の秦夕美さんからこんなメールをいただいた。 暑いですね。俳句ばかり作ってます。 「衰へのほどよき猫と雲すすき」など書いてます。 毎日、南、北、西の三方の窓から、雲を見て暮らしています。 このメールにわたしはこんなお返事を書いた。 本当に暑いですね。 雲を見てくらす、 いいですね。 いまちょっと乱読をしている本に、 多忙な人間には何ごとも十分に成し遂げることは不可能である。(略)実際多忙な人にかぎって、生きること、すなわち良く生きることが最も稀である。 という言葉があって、心に突き刺さります。 秦さんは良い時間を生きておられると思います。 忙しく生きる生が充実しているわけでないと、その本の著者は言う。 忙しく生きてあっという間に生を終えてしまうこと、すなわち、 われわれは短い人生を受けているのはなく、われわれがそれを短くしているのである。 と。バタバタとヤクザな日々を送っているyamaokaには、まことに耳の痛い話である。 もう足を洗うことなんてできゃしない。 時間を濫費しながらいずれクタバル、それがわたしの今のありさまかもしれない。 生きることは生涯をかけて学ぶべきことである。そして、おそらくそれ以上に不思議に思われるであろうが、生涯をかけて学ぶべきは死ぬことである。 秦さんからメールをいただいた時、ちょうどこの本『人生の短さについて』を傍らにおいてときどき眺めていたので、秦夕美さんの雲をみている日々が、わたしにはとても眩しい時間であり、有意義な時間に思えたのだった。 そして、上田睦子さんの句文集『時がうねる』を読んでいるとそこにはまぎれもなく濃密な生の時間があることに気づいたのだった。 翡翠ばかりを見て暮らしたい。。。
by fragie777
| 2021-07-20 19:11
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Comments(2)
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