ふらんす堂編集日記 By YAMAOKA Kimiko

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手垢のついていない新しさ。年老いてこその一句。

7月19日(月) 海の日  旧暦6月10日


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夏薊


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強い陽ざしを跳ね返すように咲いていた。


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  来るも去るも迅き雨なりし夏薊    徳永山冬子

  野の雨は音なく至る夏薊       稲畑汀子





今日も猛暑であり、人は暑ければ暑さをかこち、雨が降れば濡れることをかこち、降らなければ降らないことをかこち、つねに自然を自分の寸法にあわせようとし、それに合わなければ文句をいうという寸法である。
ところがどっこい人間の尺度ばかりに合わせてはいられないというのが、自然というものだ。
ということで、ちっぽけな人間は黙って汗水たらしながらあくせく働くことにしよう。
せめて郷里・秩父の叔母が送ってくれた美味しいアイスでも食べながら。。。
ということで、好評の果物アイスをスタッフ一同で「おいしい、おいしい」と言いながら食べ、束の間の幸福感に浸ったのだった。ちなみに送ってくれたアイスの「まるごと苺」というのは、「苺とグラニュー糖」のみのアイスでありすごく美味しい。




新刊紹介をしたい。


鈴木美喜子句集『初蝶の』(はつちょうの)

手垢のついていない新しさ。年老いてこその一句。_f0071480_17264355.jpg
四六判小口折製本カバー装グラシン巻帯あり 238頁 二句組


著者の鈴木美喜子(すずき・みきこ)さんは、昭和9年(1933)埼玉県うまれ、今年87歳を迎えられる。昭和60年(1985)に「若葉」に入会され36年になられる。現在は、「若葉」同人、俳人協会会員。本句集は昭和60年(1985)から令和元年(2019)までの30年間の作品を収録した第1句集である。序文を「若葉」編集長の伊東肇紙が寄せている。


美喜子さんの写生句には、単に見たままを描写するものではなく、どの句にも作者なりの発見と感動の心が働いて、それが素直な詩情となり、感覚表現となり、省略となり、擬人表現となって、多様な有情写生句を展開している。

 野水仙風のとりことなりにけり
 たんぽぽの絮の浮足立つてをり
 枯蟷螂つつけば闘志あらはにす
 見詰めれば物言ひたげな古ひひな
 老いて娘と暮らす幸せ桃の花

その生来の抒情性が、客観写生の方法と結びつくと、句集『初蝶の』一巻の通奏低音となって有情写生句の美しさ、詩情をかもし出している。こうした傾向は、俳歴を重ねるにつれて、明らかな特色として、美喜子俳句を形成していることが見て取れる。

 しんしんと日を吸ひ込める枯葎

「しんしんと」の作品は、長い間写生句を作り続けて来られた作者ならではの一句と思われる。小春日和の日差しを浴びている枯葎を見ていると、ふと、ある感慨が湧いたのだろう。それは年齢からくるおだやかな境地、充実感といったものか。「しんしんと日を吸ひ込める」という表現が自然に浮かび上がったものであろう。こういった感慨は、ある年齢にならないと浮かんでこない。その意味で「俳句は年代の詩」でもあると言えよう。

句も文もところどころの抜粋となってしまったが、伊東肇氏の序文より紹介した。
わたしはこの句集をはじめから読みはじめて一気に読んだ。読み手のこころにすっとその景がたちあがってくる、率直に心にとどく景とでも言ったらいいのだろうか、どんどんと読んでいって、上手い作者であると思った。よくものを見ていないとこういう風には作れないだろうなあって思わせる方だ。景色に無理がないというか。嫌味無くまっすぐに俳句で表現されたことばがとどくのである。


 萌え出でて目につきやすき蓬かな
 釣鐘草ゆさぶる雨となつて来し
 コスモスに風の止む間のありにけり
 ふるさとの校歌の山も眠りけり
 真つ直ぐといふは美し今年竹
 恙なく生きて八十路や日記買ふ

担当の文己さんが好きな句のなかから選んだ数句をあげてみた。

 
 コスモスに風の止む間のありにけり

わたしも好きな一句である。こういう句って実際にコスモスに向き合ってそこである時間をすごさないと生まれてこないような一句だと思う。コスモスの前でぼんやりとしていてもいいし、凝視していてもいいし、風が吹けば揺れるコスモスだ。しかし、風が吹かなければ揺れない、当たり前といえば当たり前だけれど、「風の止む間のあり」という表現によって風のコスモスが目の前にたちあがるのだ。コスモスという季語を「風の止む間」によって表現した一句だ。巧いなあって思う。

 ぶらんこの空いて砂場の混んでをり

これはわたしが面白いとおもった句である。ぶらんこという季語を詠むのに、たいていはぶらんこからその視点は離れられないけれど、この一句は砂場に視点をもっていって、ぶらんこのある公園の状況がよくみえてくる。それもよくある風景だ。子どもたちでにぎわう砂場、ひっそりとしているぶらんこ。いとも簡単に詠んでいるように思えるが、ぶらんこという季語をこころにおいて俳句に挑戦してきた人でなけれいばこういう風にはなかなか詠めないんじゃないかとわたしは思ったのだった。鈴木美喜子さんの上手さは、ものすごく自然にその景を読み手の心に立ち上がらせることだ。この一句だって非常に素直にその風景が見えてきて、しかもぶらんこという季語がしっかりと詠まれている。子どものことを直接詠んでいるわけではないが、子どもたちの遊ぶさまもよく見えてくる。この一句は、校正スタッフの幸香さんも「特に惹かれた一句」であるということである。

 絵日記の枠をはみ出し大花火

この一句も、子どもを直に登場させていないが、子どもがみえてくる。ああ、そうそう、こんな絵日記ってよくあるよね、と笑ってしまう。極めてさりげなく一句に仕立てているけれど、やはり季語にむきあい作句の日々をすごしてきた方からこその一句であると思う。〈生徒等のおよそ気付かぬ桐咲けり〉の句も好きである。「桐の花」って、俳人だったりすると目の色をかえてそれを一句にしようと躍起になるけれど、散文的な日々をおくっている若者にはおよそ無縁の花だと思う。しかし、作者の目には桐の花が咲いているのだ。格別な美しさを放って。視野がひろくユーモアも持ち合わせている鈴木美喜子さんという俳人の姿を彷彿とさせる一句だ。

 祖母も来よ母来よ縁のあたたかし

これは「あたたかし」が季語である。こんな風な「あたたかし」もあったのかと新鮮におもった一句である。いい句だなあっておもった。句集の後半におかれた一句であるが、晩年になっての作者の感慨である。「あたたかし」のあたたかさが心に沁みてくるような一句だ。〈老いて娘と暮らす幸せ桃の花〉という句も晩年になってからの一句。俳句のすてきさは、年老いてもこういう句ができるということ、いや老いてこその一句だ。

〈水鳥を見てゐる一人ひとりかな〉は、校正スタッフのみおさんが好きな一句である。


昭和の初め、私は埼玉県の秩父山地が平野へと至る、里山と川に囲まれた自然豊かな所に生まれました。旧くは中世の武士達が行き交った街道もあり、歴史や文化の香りを感じながらのびのびと育ちました。
長じて志木市に住み、地元の体操教室の友人に誘われて軽い気持ちで俳句の会に参加したのが、俳句との出会いです。感じたままを素直に文字にする楽しさ、言葉選びの奥深さに魅了され、気が付けば生きがいとなっていました。
最初に俳句の手ほどきをして頂いた長尾雄氏、長年ご指導を賜っている鈴木貞雄主宰、伊東肇編集長、新井ひろし氏のもとで、充実した学びの機会を得られたことはこの上ない喜びです。本当に有難うございました。
「初蝶の」という句集名は、平成二十四年俳人協会全国俳句大会片山由美子選に入賞した〈初蝶の黄に逢ひ白に逢ひにけり〉からとりました。
 

「あとがき」を抜粋して紹介した。
あとがきを拝見して驚いたのであるが、鈴木美喜子さんは、わたしの郷里秩父のご出身であるということ、きっと、鈴木さんはわたしの郷里のことご存じないとおもう。お目にかかる機会があれば秩父の思い出などを伺ってみたいと思ったのだった。


本句集の装釘は君嶋真理子さん。
いくつかの案のなかから一番シンプルなものを選ばれた。


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蝶の挿画を金箔押しに。


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カバーをとった表紙。


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見返しは華やかに。



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扉。


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 初蝶の黄に逢ひ白に逢ひにけり


「初蝶の」の句は、句集の題名となった作品であるが、中七の「黄に逢ひ白に」としたリフレインの効果のよろしさ、「黄」と「白」といった、明るく清々しい色彩の対比が、いかにも初蝶に出逢った時の感動、喜びを表している。単純明快な仕立て方であるが、かえってそれが手垢のついていない新しさをかもし出している。美喜子さんの美意識が写生の眼と呼応した、新しみのある作品となっている。(伊東肇・序より)

本句集の製作にあたっては、鈴木美喜子さんは、ご体調をくずされておりご息女の黒神幸子さんが、間にたっていろいろとおすすめくださった。


本日、千葉に住む母に会ってきました。
完成した句集を手にし、優しい雰囲気を気に入って喜び一入でした。
特に、自身の誕生日の七夕に出版できたことにとても感激していました。
母も私も、30数年にわたる俳句を読み返す機会を得て、思いがけず家族の歴史を 振り返ることができ、貴重な時間を共有できたと喜んでおります。
また、孫世代、ひ孫世代に、形として残すことができたのも幸せに感じております。

母の誕生日に、何よりの素敵な贈り物でした。
本当にありがとうございました。 


黒神幸子さんよりいただいたメッセージである。



 光陰や秩父に露の一揆の碑

句集の終わり部分に収録されている句だ。郷里をおなじくするものとしてこの一句をあげておきたい。この句は、秩父の札所23番音楽寺とよばれるところに建てられている秩父困民党の碑である。その碑にはこう書かれている。

「われら秩父困民党 暴徒と呼ばれ暴動といわれることを拒否しない」

句集の終わり近くにこの句をおく鈴木美喜子さんである。「光陰や」という措辞でもわかるように記憶のなかの一揆の碑であるが、美喜子さんにとっては忘れられない碑であり、それは秩父に生まれ育ったものとしての誇りのようなものとしてあるのかもしれない。わたしもこの碑のまえに何度か立ったことがある。郷里への思いはわたしの場合それほどあるわけではないのだが、美喜子さんにお会いして秩父への思いをうかがってみたい、この句を目にしたときあらためてそう思ったのだった。









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反骨精神はないわけじゃない。。







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by fragie777 | 2021-07-19 20:25 | Comments(0)


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