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7月12日(月) 蓮始開(はすはじめてひらく) 旧暦6月3日 先日出会ったカラス。 「暑いぞ」って物申しているようだ。 わたしの所為じゃないわって心の中で言ってやった。 昨日の讀賣新聞の長谷川櫂氏による「四季」は、『鈴木明全句集 今日』より。 雪を舞う恋にもあるや志 鈴木 明 「雪の句を真夏にとりあげる酔狂をあえてする次第」と長谷川氏。 俳人の川崎展宏夫人の美喜子さんと電話でお話をする機会があった。 しばらくご無沙汰をしていたのでたいへん懐かしい。 美喜子夫人は、こちらが忙しいだろうと気遣って用件のみですまそうとされるのであるが、わたしもなつかしくうれしく、やはり展宏先生のことに話しが及んでしまう。 展宏先生のお酒のうえでの武勇伝などについて話しながら、 「お酒をのまないと本当のことが言えなかったんですよ、主人は」と笑いながら美喜子夫人はおっしゃる。 「あら、でもお酒をのまなくても本当のことしかおっしゃらなかったですよ、展宏先生は。」 「あははは、そうですよねえ、もっと嘘がうまく言えたら楽にいきられたんでしょうけどね。でも、お酒の席でyamaokaさんにご迷惑をおかけしなかったですか?」 「楽しいお酒でした。ただ、最後は海軍のことになりましたね。先生の心には、海軍と海がいつもあったんですよね」 「ああ、そうなんです。いま朝日新聞の連載で池澤夏樹さんが海軍について書かれてますよね」 「わたし読んでないです、すみません。読みます。」 「それを読みながら、主人が言いたくとも言えなかったことが書かれてあって、本当に主人に読ませたいって思いました」 (主人のことなど遠い遠い存在となってしまいました、なんておっしゃっていたけど、やっぱり美喜子夫人の心の中には展宏先生が鮮明に生きておられるんだ) 「全句集を改めて読んで、俳句歴の割には数がすくないなあって思ってます」と美喜子夫人。 「ああ、でも展宏先生は厳しい句作りの方でいらっしゃったから」 「もっともったくさんの季語で詠めばいいのに、オレは見た季語じゃなくては作らないぞっていつも言ってましたから」 「そうだったのですか」 わたしはふっと先日の俳句甲子園出身の人たちことを思いだした。彼ら彼女らの言葉と定型へのあくなき挑戦をしつつゲーム感覚でそれを楽しむ、そして面白い俳句をつくってしまうということ、そんな俳句作りをしている若者たちがいるっていうこと、さぞびっくりされるだろうなあって、展宏先生の驚く顔を思い浮かべたのだけれど、それのことは美喜子夫人には申し上げなかった。 展宏先生、どんな反応するかな、、、、 「それはそれでいいと思うけど、僕はぜったいしないね、いやだね」なんておっしゃりそう。 お電話で数十分ほどのお話であったけれど、楽しかった。 ピュアな心の持ち主でおられた展宏先生がわたしの目の前にいきいきと蘇った。 もう一つ、美喜子夫人が笑いながらお話くださったエピソード。 「家にお客さまが来るでしょ。するとね、お客さまの前では、三つ指をついて出迎えるようになって威張るのよ、そしてお客さまが帰るでしょ、するとさっきはごめんね、なんて謝るの。可笑しいでしょう」て明るく笑って電話を切られた美喜子夫人だった。 新刊紹介をしたい。 本書は、「大阪の俳句ー明治編」シリーズの別巻として刊行されたものである。 内容は、 蓮看の蓮看ず (上) 中川紫明 蓮看の蓮看ず (下 ) 中川紫明 京阪俳友満月会無趣意書 五百木瓢亭 京阪俳友満月会第一回記 寒川鼠骨 京阪俳友第二回満月会 中川四明 京阪俳友満月会第三回記 水落露石 京都俳壇の起り 亀田小蛄 大阪俳壇の起り 亀田小蛄 神戸俳壇の起り(小描) 亀田小蛄 車百合に就きて 正岡子規 明治大阪俳壇史年表 俳壇史研究会編 より成る。巻末に中原幸子さんの解説があり、その解説によると、 大阪俳句史研究会では、明治時代に関西俳壇の基礎を築いた俳人たちの句業をまと めるべく、「大阪の俳句―明治編」全十巻をシリーズとして刊行してきた。この別巻 『明治大阪俳壇史』ではその俳人たちによる俳壇が大阪に生まれ、広がっていった足跡をたどった。ここで「俳壇」とは、正岡子規が新聞「日本」(明治二二年創刊)を拠点として推し進めた「俳句革新」によってもたらされた「日本派」(新派)俳句が形成する俳壇を意味する。 当初の予定では、この『明治大阪俳壇史』は亀田小蛄の「明治大阪俳壇小史」(雑誌「糸瓜」第二七号、大正一三年五月)をそのまま一冊にする計画であった。現在のところ、この俳壇史がもっとも詳細であるから。だが、実際に編集作業にかかろうとしたら、詳細なだけに読みづらいことに気づいた。そこで、方針を転換し、できるだけ平易なかたちの大阪俳壇史を構成することにした。 とあり、それぞれの項目の簡単な解説が付されている。抜粋して紹介すると、 中川紫明の「蓮看の蓮看ず」は、 京都在住の中川紫明と寒川鼠骨に大阪から水落露石が加わって西大谷本廟の蓮を見に行く計画を立て、出掛けたものの寄り道ばかりで結局蓮は見ずに終わってしまった顛末を洒脱な文体で記したもの。この散策の最後に京阪在住の俳友たちで「満月会」という名称の会を立ち上げ、成果を「日本」に発表することを決めた。 要するに「満月会」立ち上げになるまでのいきさつが書かれているのが、文章にただよう雰囲気がまことに長閑でいい。目的地の「西大谷の蓮」に行くまでにすでに日暮れてしまって近場を蓮をみて句をつくったりしているのだが、 且(か)つは日已(すで)に暮れんとしたれば、夜桜と云ひ夜牡丹と云ひ、如何に京都の風流が夜の花を愛するとて、夜蓮看とは余り極端ならんと、終(つい)に我が蓮看は蓮看ずに帰途に就(つ)きたり などとうそぶいているのである。笑ってしまう。こんな一節をとってみても21世紀を生きる我々とは時間の感覚がぜんぜんちがう。まことに暢気である。 このような文体で書かれているので、この明治期の人の韻文を味わいながら読むのも一興である。 五百木瓢亭によって満月会規約草案なるものも記されていてこれも面白い。たくさんの項目があるのでこれも抜粋して紹介したい。まことに詳細である。明治二十九年八月満月の夜しるすとある。 一 満月の夜を以て会し、雨天にても構はざる事 一 遅くとも月の出まへ二時間に集会すべき事 一 会場には満月会と記したる大提灯を出し目印と致すべき事 一 会は興尽きざるも月の中(ちゅう)せざる前に解散致すべき事 一 政談は月の西より出づることあるも禁制の事 一 酒肴はめい〳〵おのが食ひおのが飲むほど持参すべき事 一 会費は満月に縁ある銀貨若(もし)くは白銅貨を以て十五銭と致す事 一 会費は席料筆紙墨料茶菓料の外尚(なほ)余りあれば協議の上まんまるき焼芋を買ふ などなど、中原幸子さんの解説によれば十九条におよぶということだ。政治の話は禁句、というのも面白い。明治政府が出来てからまだそれほど経っていない。集う人たちもそれなりに明治という時代背負っている知識人たちである。政治の話をしだしたら、それはもう、俳句どころではなくなってしまうだろう。「月の西より出づることあるも」にユーモアがある。全体にユーモアが漂っていて、俳句という文芸にかかわる人間のいい意味でのゆとりを思う。タイムマシーンがあったら覗いてみたいものである。そして参加した俳人による「満月会」の記録が収載されている。中原幸子さんの解説を引用したい。 第一回は明治二九年九月二一日、第二回は同一〇月二一日、第三回は同一一月一五日に京都で開催。いずれも「日本」に予告が掲載され、全国の俳友たちの関心を呼び、兼題への投句も多数寄せられた。俳句のいわゆる「新聞時代」の到来を思わせる。回を追うごとに大阪の俳友の参加が増え、大阪満月会発足の気運が高まった。 そして亀田小蛄による「京都俳壇」「大阪俳壇」「神戸俳壇」の起りが記されている。 この俳壇史には正岡子規の「車百合に就きて」というかなり長い文章が寄せられている。これがすこぶる面白い。まず、中原さんの文章を紹介したい。 長い間停滞していた大阪の俳句文化が息を吹き返し、日本派の俳句雑誌を誕生させたことを祝って「車百合」第二号に子規が寄せたもの。悪口とも見える厳しい大阪への批判に乗せて祝意を述べた、子規らしい一文である。 こんなにけなさなくてもいいだろう、というくらいに大阪をこっぴどく批判している。抜粋して紹介したい。 「思ひ出す事何くれと申上候。」とひと言おいて、 小生は明治十六年東京に出でしより後、度々の帰省多くは大阪を経て二三日位は滞在所々見物致(いたし)候。初めて大阪に参り候節より小生の心に感じ候は只ゝ俗の一字に有之(これあり)候。乍併(しかしながら)俗にも種類あり、豪華を極め外観を飾るは俗の極却(かえっ)て美なる所あれども、大阪の俗なるはしみつたれなる無趣味なる規模の小(ちいさ)き俗のやうに思はれて誠に厭(いと)はしく感じ申候。大阪城の石垣の石の大きさは大阪人の目には見えぬやなど独りごち申候。若(も)し小生の知人にして大阪に住む者無くば、小生は二度と大阪の地を踏まざりしならんと存(ぞんじ)候。此間に在りて美術文学などの連想は出て来る筈も無之(これなく)、小生も大阪滞在中に夢にもさる考を起したる事は無之(これなく)候。此(この)俗気紛々の裏より「車百合」は如何にして生れ出で候や、甚だ不思議に被考(かんがえられ)候。 「俗」の一字で決めつけて、えらい酷評である。大阪人は怒って当然だと思うほど。しかし、悪意のようなものが見えないのがやはりどこかにユーモア精神が潜ませてあるからだろうか。 最後に子規はこう書いている。 車百合が思ひもかけぬ大阪より発兌(はつだ)せらるゝ事の嬉しさに、十年前の事など書きつらね、思はず大阪に対する悪口となりしは偏(ひとえ)に御免可被下(くださるべく)候。以上。 この文章は子規を知る上でも、よき資料となる一文であると思う。是非読まれたしといいたい。 そしてこの小さな本で特筆すべきは、俳壇史研究会による「明治大阪俳壇史年表」である。 本文をスキャンしたのだが、ちょっとわかりにくいかもしれない。 1829年(文政12)から1917年(大正6)までの俳壇史が年ごとに書かれているのだが、上段を関西俳壇、歌壇を全国俳壇とわけ比較できるようになっている。下段だけでも読んでいけば、おおまかな俳壇史が見えてくる。 このシリーズを完結させた「大阪俳句史研究会」の方々の情熱とご尽力を思う。 関西俳壇の歴史をしることのできる貴重なテキストがここに出来上がったのである。 全10巻+別巻を紹介しておきたい。 ① 松瀬青々 妻木抄 (茨木和生編) ② 芦田秋窓 草紅葉抄 (安達しげを編) ③ 相島虚吼 虚吼句集 (今井妙子編) ④ 水落路石 路石句集 (坪内稔典編) ⑤ 永田青嵐 永田青嵐句集 (わたなべじゅんこ編) ⑥ 武定巨口 つは蕗 (朝妻力編) ⑦ 中川四明 四明句集 (四明を囲む会編) ⑧ 野田別天楼 雁来紅 (塩川雄三・小寺昇平編) ⑨ 安藤橡面坊 深山柴 (東條未英編) ⑩ 青木月斗 月斗句集 (中原幸子編) ⑪ 明治大阪俳壇史 (子規、亀田小蛄他)
by fragie777
| 2021-07-12 19:04
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