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6月25日(金) 旧暦5月16日
神代水生植物園の蘆原。 ただただ目の前には丈高い蘆が生えているだけだが、好きな場所である。 蘆って清潔な感じがする。 この蘆原を抜けていったら、身体が浄化されそう。 ここを通って、コロナ菌も死滅させるか。 昨日はほんとうにとんまなyamaokaだった。 大いに呆れられたのではないだろうか。 四ッ谷龍さま、 あたたかなお言葉をありがとうございました。 今日は新刊紹介をしたい。 「ーー龍太、楸邨、七菜子、鬼房、草堂など諸家の名句を考察」という副題が付けられている。 四六判ペーパーバックスタイル帯あり 116頁 著者の最光蝕(さいみつ・しょく)さんは、1937年山梨県うまれの俳人であり詩人である。童話もかかれて童話集も刊行されており、そのほか詩集5冊、句集2冊、評論集を1冊を刊行されている。第12回山梨県芸術賞、第31回、第32回と世田谷文学賞に入賞しておられる。今回は、所属結社「南風」(村上鞆彦主宰)に掲載したものを収録した評論集である。そのことを「あとがき」に書いておられるので、紹介したい。 俳句結社「南風」入会からほぼ二十年、本書はこの期間の小論文、句集鑑賞、一句鑑賞、主宰等による評言と指南を取り纏めて、力量不足も顧みず一書としたものである。 この初学の期間中には幸運にも、鷲谷七菜子、山上樹実雄、津川絵理子、村上鞆彦四氏の御指導に恵まれた。殊に編集長を兼ねた村上主宰には南風誌上での小論展開に何の条件も付けず自在に書かせて戴いた。 本集は、大きく分けて全部で4章から構成されている。第Ⅰ章・俳句評論、第Ⅱ章・俳句集鑑賞、第Ⅲ章・一句鑑賞、第Ⅳ章・特選拙句評となっており、ここでは、第Ⅰ章の俳句評論のことを中心に紹介をしておきたい。 この章においてとりわけ、飯田龍太のことが何度か繰り返してでてくる。龍太の作品をどうよむか、あるいは龍太という俳人をどう理解するか、抜粋しながら最光蝕さんの論考にすこしでも触れられたらと思う。 さて、龍太は処女句集『百戸の谿』(定本)の冒頭の題辞で〈とにかく、自然に魅惑されるといふことは怖しいことだ〉と記している。しかし、こうした認識が、何時、何を契機にして直覚され、それがどの句に具現しているかを龍太は黙して語らない。従って、この革新的で大胆な定言がなされた背景を第三者が探ることは、それが推論にとどまるにしろ、創作の機微に触れ得る機縁になれば何らかの意義をもつであろう。 先ず、龍太のこうした言挙げは、瑣末な写生主義的俳句作法とは次元の異なる存在論的深みと緊張を孕んでいることを指摘したい。 (略) 大寒の一戸もかくれなき故郷 代表作「大寒の……」の一句については、村社会の柵と土着を受容する覚悟を謳ったとする解釈もあるが、筆者には龍太が全視野を眼中に取り込んだがために自然との脅威的緊迫、痙攣的憑依の裡に捕捉し得た世界空間のように感じられる。こうした決定的瞬間において自然に魅惑されることが、同時的に自然に魅入られることだという戦慄的認識がなされたであろう。 (略) 「私の俳句入門」で龍太は〈ただ、昨今の実感からすると、自然に関心する、自然をみつめるという感じが、いつか自然に見られている、ますます厳しく監視されている、そんなおもいを抱くことがある〉と述べる。「自然に魅惑されることは怖しいこと」の宣揚から二十三年後、五十七歳の感慨であるが、自然に魅惑されることは自然に魅入られることという認識は変っていない。 龍太が言うところの「自然に魅惑されることは怖ろしいこと」ということは、すなわち「自然に魅入られること」であり、それはまた、「自然を見つめること」が「いつか自然に見られる、ますます厳しく監視されている」ことであり、故に怖ろしいことである。ということなのだろう。その認識の下に龍太は俳句を作ってきたという。その自然をみつめることによってもたらされることを最光さんは、「戦慄的認識」と語っておられるのだ。つまりは見つめる人間との安穏とした自然との和合の境地などというものではなく、ますます見つめる人間を脅かすものであり、それを最光さんは、「脅威的緊迫」「痙攣的憑依の裡に捕捉し得た世界空間」という。 そのことについて、「消え失すことへの執心」とのタイトルの項で、さらに展開させていく。 龍太においては、見る・見られるという宥和的観入を超えて、凝視の惹き起こす惑乱の恐怖までが先験的に予感されている。ここにこそ、時代精神を体現せんとした龍太の野心的で尖鋭的な先進性が認められよう。 自然に対するこのような観方は、純朴な記述的写生主義の超克を意味する。対象からの衝迫や恐怖の招来を拒まず終局まで対峙せんとした時、その統御の一方途として、龍太は「消える」という手法を試用したのではないか。─この私見は前回の当欄の小稿で触れたので、本稿では「消ゆ」に類する「居なくなる」をも含めてその諸相を見てみたい。 と知るし、例句をあげながら「消えてゐなくなる句」をとりあげて論証する。ここでは龍太の句のみならず、ほかの現代俳人の句などたくさんとりあげて、 これらの「消えてゐなくなる」句々の魅力は、魔術的で爽快でさえある〈虚実の入れ替え〉を伴いながらも神隠しのような事件性の匂いを帯びつつ日常の不測の暗転を意識させることにあろう。 (略) ところで、このように捉えどころない消ゆる行為や現象を敢て追究するのは、その背後に不測で無量の可能性が感じられるからであり、消ゆることと引換えに未知の世界からの転生や帰還、招来や発語が期待されるからである。 (略) 対象を一層顕現化した見える俳句が大道とされる傍らで、虚実の微妙を捉えんとするひそみの俳句、消え入る俳句、謂わば「見えない俳句」が逆説的に求められてもよいであろう。前掲の晴子のような名句、英実のような秀句が産み出されるならば、魅力ある未開の「句域」として、その可能性に関心が高まるであろう。 ここに記されている飯島晴子、大本英美の俳句を紹介しておきたい。 餅筵誰かがゐなくなりさうに 飯島晴子 ふらここを降りて翼の消えてゐし 木本英実 この部分は最光蝕さんの論考の中心となる部分ではないかと思う。「対象を一層顕現化した見える俳句」とは、つまりいうところの写生俳句のことであり、そのありようへの批判的な視座があっての論考なのではないか。 第Ⅲ章の「一句鑑賞」では、「佐藤鬼房の一句」について書いている部分がある。抜粋して紹介したい。 中村草田男の創作論への鬼房の批判を紹介し、その鑑賞をすすめていく。 吐瀉(としゃ)のたび身内8みうち)をミカドアゲハ過ぐ 佐藤鬼房 (略) 句自体の構成素である「吐瀉」は深刻で壮大なカタルシスと同時に途方もない消尽と自失を暗示しよう。一方で吐瀉と取り合わされた蝶─蝶中の蝶であるミカド(帝)アゲハによって蘇生の暗喩としての至高の美が、蕩尽(吐瀉)と同時的必然的に顕現する。その出現も一回性でなく吐瀉の度に示現することによって救いの徴となる。この危難と極美の同時的出現こそ、鬼房の示し得た現代的黙示録であり究極の美の可能性によって時代の救済ともなり得よう。 さて、このような極美の句の創造が鬼房において可能となったのは何故か。俳論集『片葉の葦』の一節で鬼房は中村草田男の創作論に異を唱えて、その言説「自然の生命との彼我融合の瞬間に、作為を超絶して、無意識に詩として誕生してくるのである」という説得力を持つ筈の草田男流の言辞を排し、この持論が表現への過程にとどまると見做して「明らかに作家の衰えというものを草田男に発見した」と断言する。 鬼房自身は「表現定着の瞬間も、作家として覚めていて最後まで渾身の努力を持続すべきなのだ。陶酔はゆるされない」との自恃により掲句のような窮境に発現する極美の世界を把握し得たと思う。 本集の製作過程において、最光蝕さんは事故に遭われて入院を余儀なくされた。 そのようなお気の毒な状態での本集の進行となったのだが、村上鞆彦主宰をはじめ句友の東尚道さんのご助力をいただきながら、こうして無事に刊行のはこびとなったことを喜びたい。 担当は文己さん。 「処女句集から晩年まで変わらない『龍太の自然への対峙の仕方』という観点が面白かったです。龍太の句の表現の微妙な差異に思惑の違いを見出す着眼点も鋭いと思いました。後半の句評、自句自解も勉強になりました。 」と文己さん。 装釘は君嶋真理子さん。 「シンプルに」という最光さんのご希望をとりいれて、 シンプルだが、スマートに。 拙論では個々の俳句の印象や美点の言挙げを避け、俳句創造の原点や原理を探り、その際の危機意識に注目してきた。文字どおり各論とも小文にすぎないが、卑見が俳句創造の危機意識に焦点の当てられる契機になればと願いつつ今後の俳句論の新展開を俟つこととしたい。(「あとがき」より) ひやひやに水吊られけり金魚玉 最光 蝕 最光蝕さま。 評論集のご上梓おめでとうございます。 お身体のご回復はいかがでございますか。 ご快癒を心よりお祈りもうしあげます。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
by fragie777
| 2021-06-25 18:55
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