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5月22日(土) 蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ) 旧暦4月11日
紫陽花の季節となった。 ご近所ではいろいろな紫陽花を育てている。 紫陽花もいまや多種多様である。 額の花とも呼ばれる。 紫陽花を詠んだものをいくつか。 あぢさゐの末一色となりにけり 一 茶 水辺より夕風の立つ額の花 川崎展宏 紫陽花剪るなほ美(は)しきものあらば剪る 津田清子 あぢさゐのよひらの八重に見えつるは葉ごしの月の影にやあるらん 崇徳院 曇り日に咲く紫陽花の花の下青年の蛇は埋められてゐむ 前登志夫 森駈けてきてほてりたるわが頰をうづめむとするに紫陽花くらし 寺山修司 さて私のことを書くとすれば、私自身はもう二十年来、あじさい寺として近年とみに名高い明月院のある、北鎌倉の明月谷という谷(やと)に住みついているので、いわばアジサイの本場に住んでいるようなものだ。山かげで湿気が多いから、ここはアジサイの生育にはもっとも好適な土地であるらしく、げんに私の家の庭でも、挿木をすればどんどんふえる。斜面になった岩盤の上の土地で、かならずしも地味がいいとはいえないのに、アジサイだけは勢いさかんに育つのがから不思議である。 六月の雨季に咲くアジサイの花は、降りつづく雨にけむって、その紫や青や紅が空気の中にしっとり薄く溶け出すような、なんとなく泉鏡花的な幻想に私たちを誘いこむ。かつては庭木として珍重されず、せいぜい貧乏寺の境内とか、あるいは背戸(せど)(なつかしい言葉だ)なんかに植えられていて、だれからも顧みられなかった。明月院で脚光を浴びているアジサイを見ると、私はタレントに出世した少女を見るような、へんな違和感をおぼえる。(渋澤龍彦著『フローラ逍遥』「オルタンスという女」より) わたしの育った家には紫陽花が一株あったが、今日のような華やかな色のものではなかった。もっと淡くて全体が薄緑いろをおびていて小雨のなかにその色が溶け込んでいくようなもの、だから晴れた日などはどこか紫陽花もしんみりと疲れたような様をしていたように見えたのだった。 今日も午前中、仙川に行ってみた。 翡翠の幼鳥も親鳥の姿もみえず、手持ちぶさたそうに大きなカメラをさげた男性たちの姿がちらほらとあった。 わたしはそれでも新緑の木々にそってあるくことが楽しかったので仙川添いをいくと、茶色の虫のようなものが飛んできて草むらにとまった。 あれ、、なに? と思って目を凝らすと、 翡翠である。 肉眼ではこんな感じなのだ。 拡大してみた。 多分セミオ。 「こんにちは」って挨拶をしたら、こっちをみたような気がする。 そして、一瞬わたしがいる足元の下方にとまって、それから水にジャンプしてザリガニを捕まえた。 こんな風に。 そして、 あっというまに平らげて、飛び去ったのだった。 わたしだけが会えた翡翠のセミオくんだった。 夕方より仕事場で仕事。 仙川沿いに咲いていた山法師の花。
by fragie777
| 2021-05-22 18:46
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