カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
4月29日(木) 昭和の日 旧暦3月18日
せっかくの休日、雨風のはげしい一日となった。 昼過ぎに雨がやみそうな気配だったので、仙川沿いをあるくべく出かけた。 歩き始めてしばらくすると、雨あしがつよくなり風も出てきた。 ヤレヤレとおもったがいずれやむだろうと高をくくって歩きつづけた。 野良猫にあう。 おお、いい顔してるね。 ずっとわたしの方をみており何回か振り返ったのであるが、その場を動こうともせずにこちらを見ていた。 雨にけぶる丸池公園。 無患子の新緑がいちだんと鮮やかだ。 目にやさしい緑である。 雨風はますますはげしくなって人影はない。 鴨も雨粒を全身につけて土の上でやすんでいる。 雀も吹き飛ばされそうだ。 オナガガモもヒドリガモもオオバンも帰ってしまったが、まだ残っているコガモ。 羽の美しさにしばしうっとりする。 白鷺も雨に打たれている。 仙川に鯉のぼりがかかっている。 なかなかいい風景だ。 一反木綿もいる。 ひとつひとつがすべて違う鯉のぼりである。 子どもたちがつくったのだろう。 もうこの時は、わたしは雨に降られてぐちょぐちょの状態だった。 レインコートを着ていたのでどうにか助かったが、しかし、スニーカーの左足の靴底がはがれてしまい、えらい目にあったのだった。 今日は田中裕明・森賀まり共著『癒しの一句』 より、4月28日付けのもの。森賀まりさんの鑑賞である。 たとえば一位の木のいちいとは風に揺られる 阿部完市 一位の木は針葉樹で高さは10余メートルにもなる。昔この木で笏を作ったことから位階の一位にちなんでそう呼ばれる。古名はあららぎ。雌雄があり一年をとおして葉は深い緑色。花と実はそれぞれ春と秋の季語であるが掲出句は無季である。 作者阿部完市は昭和三年(1928)東京生れ。その作品は、言葉の持つそれぞれの意味や言葉によって生まれる時間の概念とは別の場所に立つ。「たとえば」ではじまる掲出句もと特定の一本の木というのではなく「一位の木のいちい」という響きのなかの揺らぎそのもの、またその揺らぎをおもう作者の心の有りようなのだろう。 立風書房の現代俳句全集五巻「自作ノート」のなかに「その一句一句の非完結の姿、意味という終章をなるべくむかえないようにしている形を、私は私にゆるしている」とある。この句もまた言葉を解きほぐして意味を追うやり方にはそぐわない。それでも一本の一位の木が確かに風に揺れている。句集『春日朝歌』所収。(無季) 以下は余談。 この連休に整理整頓が苦手なyamaokaであるが、家のいたるところにある引き出しを一日にひとつ整理することにした。 で、今日は食器戸棚のひとつをやった。 やるといっても引き出しを抜いてその中身をテーブルにぶちまけて、そこから入用なものだけを残すというやり方。 するとほとんどがいらないものばかりということになった。 引き出しの底に10数年は眠っていたちょっと綺麗なものが出てきた。 コースターである。 陶器で有名な源右衛門窯製のコースターである。貰いものなのか買ったものなのかもわからない。 (きれいじゃん) わたしは使おうとおもって取り出そうとして、ふと手をとめた。 (客、来ねーしな…) ということで、捨てるのはもったいないので、お客がよく来そうな知人にあげることにしたのだった。 結局ほとんどのものを捨てることにしたのだが、残すものもあった。 イタリアで買ったピロケースと(日本の)マッチ。 小学生から高校までつかっていたスプーンとあとは栓抜き。 (なんでこんなものとっておくの、って笑わないで) どれもこれからも決して使わないものだとおもう. スプーンは別として栓抜きはその重さと手触りとデザインが気に入っていて捨てたくないものである。どれも昭和の頃のものだ。 これらは決して高価なものではないのだけれど、捨てがたいのだ。 これも余談。 朝、畳の上に寝ころんで軽い体操をしていた。 ふと、天井を見上げたら線と面がおりなす形と白と茶の色合いが美しいと思って、ちょっと感動した。 矩形のおりなす美しさとでもいったらいいのかしらん。 立ち上がってみれば20年以上も経つ古ぼけた家なのだけど、 寝ころんでいろんな角度で写真を撮ってみたもののひとつ。 休みの日ってこんな発見もあるから楽しい。
by fragie777
| 2021-04-29 22:25
|
Comments(2)
|
ファン申請 |
||