カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
4月27日(火) 旧暦3月16日
すこし前のブログで「桐の花」はもう咲き終えてしまったと書いてしまって、「残念」と反応してくださった方々がおられたのだが、あれは嘘でした。というより、今日桐朋学園のところを通りかかったら、あらいやだ、咲いてるじゃないの!ということでびっくり。わたし何をみていたんだろう。。。 ほんとうにごめんなさい。 勘違いをしてしまったようです。 ということで桐の花。 すでに夕暮れだったので、ちょっと暗いのだけれども、、、 やや、もう終わりかけているのかもしれない。 もう少し早く気づけばよかった。。。 すごい高いところに咲いているのを思いっきりズームで撮る。 (一眼レフだったらなあ、もっと綺麗に穫れるのに。。。) 桐の花石積む毎に沈む舟 佳 庭 母に色あらば夜明けの桐の花 小澤利子 橋すぎるころには暮れて桐の花 篠原悠子 俳誌「南風」(村上鞆彦主宰)5月号を送っていただく。 そこに津川絵理子さんの句集『夜の水平線』を装丁された戸田勝久さんが寄稿されていることを戸田さんより連絡をいただいた。「句集『夜の水平線』評」という特集が組まれていて、戸田さんは「津川絵理子句集の装釘」と題して、装釘について触れておられる。戸田さんよりメールにて写真も送っていただいたので写真付きで抜粋して紹介したい。 私は第一句集『和音』から『はじまりの樹』、最新の『夜の水平線の三冊の装いをさせていただきました。本文に最適な服を着せるのが装釘家の仕事だと思っています。それは著者の想念を本という物質にする作業なので、まず原稿を読むことから始めるのです。しかし、今回は読みながら書物の姿をイメージしたのではなく、なぜか前す句集が感性した時には既に次の句集の白い本の姿が浮かんでいました。それなら今回の原稿に沿っていないのではないかとのご指摘を受けそうですが、初めて原稿を読んだ時、随分前に浮かんだその白いイメージがやはりぴったりだと強く感じてそのようにしました。俳人の「句の姿」は、毎日変わっていくのだろうから以前に出てきた装釘のイメージが、この度の新しい句集に合うのが少し不思議な気がしています。(略) 題名の「水平線」はどこですかと尋ねたら明石須磨間の塩屋辺りとのことでした。塩屋は播磨と摂津の国境いで、その両方の空気を吸って生きてきた彼女にとり、この街の「水平線」は自分がその時に立っていた塩屋という国境の線と十字に交差しています。表題の書名、著者名を縦に一行で表紙と扉の真ん中に配置し、塩屋の海を見て立つ彼女の姿の象徴として水平線である横線に交差させたのです。 戸田さんは、津川絵理子さんの句をたくさんあげておられるのだが、ここではそのうちの春の句を抜粋して紹介したい。 あたたかやカステラを割る手のかたち 水彩画二月の光塗り残す 春雷や版画の太き白と黒 立春や腕より長きパンを買ふ 空をゆく木のこゑ四月終わるなり 私が好きなこれらの句は、いつ読んでもすっと気持ち良く心に入ってきて、微かで美しい鈴の音を響かせてくれます。 この特集には、関悦史さんも寄稿されている。タイトルは「津川絵理子『夜の水平線』の唯物論的アニミズム」。 後半の部分を紹介しておきたい。 最近「週間俳句」第七二四号に掲載されたインタビュー「虫の機嫌」によれば津川絵理子はガやバッタなどを極めて注意深く飼育しているらしく、神経症的鋭敏さと異質の注意深さはそうした生き方、慣習と地続きであるようだ。他の生きものと共生する世界を図式として見せる必要はない。怪力乱神を語らず、審美性にも走らず、津川絵理子は字余りがほぼない五七五定型を遵守しつつ、そのなかでゆるゆると自在に自他、生きもの、無生物の境目をいつくしむように攪拌し、さらには天空や土星の輪(《香水や土星にうすき氷の輪》)にまで触手をのばし、句に驚異を導き入れていく。そこにはときに真顔ならではのユーモアすら漂う。つまり批評性を保ちながらも対象を突き放してはいない。稠密にチューニングされた言葉で作られた沈着なエロスと親和性の世界は、蛇笏や石鼎とは別な回路で、驚異としての自然と自己とに触れ得ている。『夜の水平線』は佳句の多さにおいても畏怖すべきである。 「俳句」5月号では、四ッ谷龍さんが句集『夜の水平線』を書評しておられる。 こちらも是非に全文を読んでほしい。すこしだけ抜粋する。タイトルは「生死の境界にひらく眼」。 近付けば雪渓暗き眼をひらく 山を歩いていたら、雪渓の風景が大きく広がり、半ば陰になっている。それを作者は「暗き喩」と把握した。雪渓を、この世とあの世を隔てる境界のように感じたのではないか。雪渓はこの世を見つめる死者の眼と化している。(略) 津川の世界が広いものとなってきた理由の一つとして、『和音』では一物仕立ての句が多かったのに対して、徐々に配合の手法を使用するようになってきたことがある。句の描写が立体的になった。そこにこの句集の魅力がある。 この「俳句」5月号に、深見けん二氏が作品21句「中新井雑書宇」を寄せておられるが、どれも力強くそして自在である。 蟻が蟻の頭乗り越え穴を出づ 深見けん二 以下余談。 ここんとこ、バッハのパルティータ第六番ばかりを聞いている。 それもおもに第一楽章のみ。 グールドのピアノによるものだ。 吉田秀和さんによるとグールドのでは第一番がいちばん好きらしいが、わたしは一番はまだ聞いたことがない。 もっぱら五番と六番を聞いていたが、いまは六番のみ。 よく飽きもせずにって自分でも思ってしまう。 朝聞いて、車の中で聞いて、夜寝る前も聞く。 でもいいんだよなあ、これが。。。 日向子の足の裏をさわりながらも聴く。
by fragie777
| 2021-04-27 19:20
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||