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4月14日(水) 虹始見(にじはじめてあらわる) 旧暦3月3日
今日は歩いて仕事場へ。 出かけるときはうっすらと日がさして雨も止みそうだった。 (傘、どうしようかな……) このまま晴れてくれそうな気配である。 しかし、雨となったら面倒だ、ということでビニール傘を持って家を出た。 途中まではこぬか雨だったが、次第に雨ははげしくなって、わたしはビニール傘を開いて差すことになった。 雨のなかで凜々しい雀。 仕事場に着いたときはかなり濡れてしまったのだった。 雀みたいにぶるぶるっと身体を震わせて身体中の水滴を払い落とすことができたらどんなにいいだろう。 しかし、わたしは雀ではない。 いまんとこコートを着た二足歩行の動物であるので、濡れたコートを脱いでハンガーに掛けたのだった。 讀賣新聞の長谷川櫂氏による「四季」で、10日間にわたって野中亮介句集『つむぎうた』より毎日一句ずつが鑑賞されていたが、後半の五句を紹介しておきたい。 草笛の少年の家誰も知らず 風船の捕まへられたがるやうに飛ぶ 春の月桶をあふれて天にあり 涅槃図を掲げ真鯉の浮かぶ山 乾かしてまた雨を行く遍路笠 11日づけの西日本新聞には、特別論説委員の永田健氏による「時代ななめ読み」のコーナーで、池田澄子句集『思ってます』よりの一句が取り上げられて池田澄子さんのことが語られている。タイトルは「まさか蛙になるとは」 抜粋して紹介したい。 こんな愉快な俳句があるのをご存じだろうか。 〈まさか蛙になるとは尻尾なくなるとは〉 破調の句だが、何回も音読するうちに俳句らしいリズムに乗ったりもする。作者は俳人の池田澄子さん(85)。 この句を読んだとき、私は思わず噴き出した。句の中で「まさか蛙になるとは!」と驚いているのはカエル自身だ。自分はこれまでオタマジャクシという存在だと信じて疑わず、のんきに水の中を泳いでいた。水辺で見かけるぴょんぴょん跳びはねるカエルという生き物は、自分とは何の関係もないと思っていた。 それがどうしたことだ。あれよあれよという間に足が生え手が生え、体はいきなり緑色になった。おまけに尻尾がなくなってるよ!え、おれカエルだったの? 池のほとりの草の上で、ぼうぜんと口を半開きにしている青いカエルの姿を想像する。そのたびに笑いがこみ上げてきて困る。 ◇ ◇ 池田さんは今年2月、相次いで大きな賞を受けた。讀賣文学賞(詩歌俳句部門)と現代俳句大賞だ。大賞の選評には「日常生活に根ざした題材のほか、戦争や生死など重いテーマも取り上げ、深い俳境を示している」と記されている。(略) 池田さんが句作を始めたのは30代後半。俳人としては比較的遅い。「ある日、思いがけず俳句と出会った。四十歳に手の届きそうなその日まで、私は私の人生に俳句が入り込むなどということを、ほんの少しも考えたことがなかった」とエッセーで回想している。ふと思った。冒頭の句の「蛙」の驚きは池田さん自身の驚きでもあるのでは? 新聞記者の「深読み病」ではいけないので、ご本人にうかがってみたところ、「よくぞ仰ってくださいました。まさか俳人ニナルトハ、デシタ。私ノ人生」という返事をいただいた。 (略) 4月は進学や就職で「なりたいものになる」ための人生をスタートさせる月だ。一方で、希望通りのスタートとならず、不本意な春を迎えている人もいるだろう。でも落ち込むことはない。偶然か必然かの出会いを経て、数年後、数十年後の自分が「まさか〇〇になるとは」と驚いているかもしれないのだから。 この記事のことで、永田健氏に対応したスタッフのPさんに、永田氏よりこの掲載記事とともにお手紙をいただいた。そこに、 このコラムは2018年4月から始まったもので、読者に世相や政治、国際情勢についてわかりやすく伝えるというのが趣旨です。時々文学や社会風俗、音楽や映画なども取り上げています。 とい書かれていた。 ふっと、思った。 蛙になれないオタマジャクシっているのだろうか。 まわりがどんどん蛙になっていくのに、 ずっとオタマジャクシにままでいる、、、 んなこと、ないよな。。。 こでまりのとなりに咲いていた一本の黒チューリップ。 このチューリップも自分が黒っていうことにちょっと驚いているみたいだった。 昨日だったか、Facebookを開こうとしたら、もう一度登録をしなおせという指令(?)があった。 朝の忙しい時間、ヤレヤレと思いながら登録をしなおしたのはいいが、 なんということ! いままでのお友だちをすべて失ってしまったみたい、、、、 お友だちだった皆さま、絶交したわけではありませんので悪しからずご容赦くださいませ。。。
by fragie777
| 2021-04-14 18:48
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