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3月20日(土) 春分の日 旧暦2月8日
お彼岸である。 今日は国立・谷保天神から城山へかけて友人たちと歩く。 雨がふるかもしれない、ということでわたしとしてはめずらしく傘をリュックに突っ込んだ。 谷保天神の神鶏。 美しい白い鶏だ。 そうだ、久しぶりに会った友人の髪がきれいな白髪となっていた。 「もう染めないことにしたの。」と。 綺麗にカットされていて銀色のジャケットと響き合って白髪もまた良きものである。と私はおもったのだった。 こちらはわたしのお気に入りのキング。 相変わらず群にくわわらず、睨みをきかしている。 こっちもいい毛づやだ。 麦青む季節でもある。 心を風がとおりぬけていく、そんな緑色である。 古民家では、接骨木(にわとこ)の花がもう咲き始めていた。 椿も。。 古民家でお昼をたべて、ゆっくりとした時をすごす。 裏手に山吹の花が咲いているというので、見に行く。 山吹の前でしばらく立ち話。 ひさしぶりに会ったので話がつきない。 そして、遠回りをして駅にむかうことに。 海棠が咲いていた。 紫木蓮も。 今年始めてみる紫木蓮。 華やかに白い花を咲かせている木。 利休梅(りきゅうばい) 綺麗な花である。 いま、調べたら花言葉は、「控え目なうつくしさ」だって。 これは何? と聞いたら「グミの花」と即刻の答え。 なんとも可憐な花である。 菜の花の一群だ。 今まで見て来た花たちは、多くは家の敷地内に咲いていたものである。 菜の花はちがう。 野に咲く花だ。 こんな罵頭観音のかたわらに咲く。 これは白蒲公英。 そして地獄の釜の蓋。 友人が胸に一草をブローチのようにつけた。 なんだかわかります? こたえは、、 葎(むぐら)である。 俳人が好んでよむ草花である。 「葎」は夏の季語。 たのしい野遊びの一日となったのだった。 以下は余談。 友人のメール情報で、今日はピアニストのリヒテル(スヴァトラフ・リヒテル1915~1997)が生まれた日であることを知った。実はここんとこずっとリヒテルのピアノばかりを聴いていたのだった。今朝もリヒテルのシューベルトのピアノ5重奏曲を聴いたところだ。これば第4楽章にあの有名な「鱒」があり、それでよく知られている曲だ。リヒテルのピアノはすごく力強くて音が立ってくる。そしてまわりのすべての音を制圧し主導するような迫力を感じる。モーツアルトのピアノ協奏曲の20番をべつの有名なピアニストと聞き比べたのだが、やっぱり違う。リヒテルのことを考えていたので、今日が生誕の日と思うとすこし不思議な気がしたのだった。 リヒテルは、ベートーヴェンやシューベルト、そしてシューマンやリストなどを好んでよく弾いたのではないだろうかって思っているし、わたしもそれらのCDをすくなからず持っているのだけれど、実はほとんど聴いていない。有名なベートーヴェンのピアノソナタも持っているけれど途中でやめてしまう。今日もシューベルトの「鱒」を途中で聴けなくなってしまった。 どうしてなのか。リヒテルのピアノはすばらしいのだが、曲そのものがもっている何か旋律と言えばいいのだろうか、それが心をこするのである、気持ちがざらつく、ベートーヴェンでもそうだ、クラシック音楽といってもわたしの守備範囲は針のあたまくらいの狭さだ。バッハとモーツアルトしか聴かない、あとは古典の声楽ぐらい。だからクラシックに全然精通しているわけではなないので、笑っちゃうようなもんなのだろうが、モーツアルトとバッハは聴いていても飽きないのだ、ただ他のが聴けない。と言ってそんなに知っているわけじゃないけど、いやほとんど知らないと言うに等しい。単なる聴かず嫌いなのかもしれないが、聴いてみよという気がおきない。人生、損をしてるのかもしれないけど。 わたしの心は繊細じゃないし、鈍感なたましいの持ち主で、耳も上等ではないのだけれど、これはもう身体の受入れの問題として音が身体に染み込んでくるか、モーツアルトのようにわたしを解放してくれるかどうか、ということが問題なのだ。 ヘンなこと言ってるかしら。。。 はたして異常体質なのか。 飾ってあるだけのレコードジャケット。 しかし、気に入っている。
by fragie777
| 2021-03-20 20:58
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