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3月9日(火) 旧暦1月26日
行く(帰る)鴨。 行かぬ鴨。 行く鴨たちの元気に泳ぐ姿。 この日、彼ら彼女らはものすごく元気だった。 はげしい水しぶきをあげながら泳ぎ回っていた。 行かぬ鴨もまた、悠然と過ごしていた。 行くことのないカルガモたちにとって、やって来て去って行く鴨たちはどう映っているのだろうか。。 さびしいと思っているyamaokaほどにはさびしいとは思っていないのだろうか。 その胸の内を聞いてみたい。。。。 6日付の讀賣新聞の仁平勝さんによる時評「俳句とことば」に、津川絵理子句集『夜の水平線』がとりあげられて評されている。抜粋して紹介したい。タイトルは「想像力を引き出す仕掛け」。 五七五という短い定型が詩として成立するのは、そこに読者の想像力が加わるからだ。すなわち俳句の言葉には、想像力を引き出す仕掛けが必要になる。 津川絵理子句集『夜の水平線』(ふらんす堂)は、たとえば省略の効いた言葉が想像力を誘い込む。 「思ひ出すだめに集まる春炬燵」は、何を思い出すのかが省略され、それは読者に委ねられる。つまりここでは、思い出すという行為そのものに価値が置かれている。そして「春炬燵」は、めいめいが思い出す時間を過ごすために、いつまでも仕舞われない。「自転車の横切る野球日脚伸ぶ」は、たまたま野球の試合中に自転車が横切ったのを、「自転車の横切る野球」というふうに詠んだ。大胆な省略で、「自転車の横切る」が「野球」を修飾する形になる。ようするに、そんなのんびりした野球(むろん草野球)であるということだ。季語の「日脚伸ぶ」も、その雰囲気に加担している。(略) ほかに今瀬剛一句集『甚六』(本阿弥書店)については、「言葉の選び方に円熟の芸を感じさせる。」と。 新刊の 東直子・穂村弘共著『短歌遠足帖』を時間のゆるすがぎりでのんびりと読んでいる。 本著はわたしの担当ではないので、わたしは一人の読者として楽しんでいる。 いまのところ、まだ半分にもいっていない。 読み始めて思うに、本著は大変ゴージャスなゲストをむかえての、しかも東直子、穂村弘という魅力的な歌人おふたりをメインにした「短歌遠足」ではある。そのゲストのゴージャスさに心がいってしまうけれど、しかし、この本の面白さは、ゲストがどんな短歌をつくるか、ということもそれはそれで興味のあるところであるが、なによりもわたしが面白いとおもったのは、ゲストがつくった短歌(岡井隆氏をのぞいて、それはほとんどはじめて、という方が多い)に東、保村の両氏が舌鋒鋭くつっこむということ、また自分たちの作った短歌にたいしてもなかなか容赦ないということにはじまり、ゲストを気遣いながらも、言うべきことは言う、という姿勢がつらぬかれた結果、それが優れた短歌論あるいは言語表現論となっていることだ。 最初に登場する岡井隆氏のところ、(ここはこの遠足がおわったあと、わたしもお目にかかって食事をともに致したこともあって、なんとも切なくなつかしいものがあったのであるが、)岡井隆氏の短歌への思いも東、穂村両氏によってうまく引き出され、岡井隆という歌人の歌人論ともなっていることだ。井之頭動物園を散策しながらの短歌であるのでそこに当然動物たちが登場する。その動物たちを詠むにしても、三人三様の歌が出現する。まずは最初に登場する岡井隆の短歌について、 実験用山羊を殺(あや)めし若き日を語りつつ指(さ)す黒き牡山羊を 岡井隆 (略) 穂村:普通、動物を「殺す」となると、食べるっていうパターンがあるんだけど。この歌は出来事自体が特殊で、普通の人はしない体験だから、リアリズムといっても、やっぱりそこの強さがありますね。それを「実験用」っていう言い方で、こちらに手渡しているっていうところ。あとは、何だろうなあ。実際にはその、この「若き日」っていうのがすごく眩しいもののように見えてくる。今の岡井さんには山羊殺せまいみたいな(笑)。 岡井:ははは。 穂村:山羊って、かなりでかいですよね。兎とは全然違う。実際にはそんな殺し方しないんだろうけど、がっと掴んで殺すみたいなイメージがあって、まだ血気盛んで、医学的野心に燃えていた若い日の眩しさが、この歌からはすごく伝わってくる。 岡井:そういうふうに読んでいただけると、とてもうれしいですね。 東:眩しさとその、やっぱり自分のなかにある残酷さへの懐古ですよね。 岡井:そうそう、そういうこともあります。実験動物は、世界中に今の瞬間もたーくさん殺されてる。でもその事を言う人はあまりいない。それはやっぱり、残酷さがいやなんだろうねえ。本当は、 牛肉、ビフテキ食べてるときも、向こう側に殺されてる牛がいるんですけど、これは言いませんよね。 東:そう、人間生きているということはものすごい矛盾をはらんでいて。それを突きつける強さがある、この歌には。 岡井:そうそう。 穂村:やっぱこの歌はマウスじゃ成立しないんだな。「実験用マウスを殺めし若き日よ」これだとあまりにも力とサイズの差がありすぎて。まかり間違えればやられるような手ごたえがある動物だから、成立している。そうすると、医学的な行為だけじゃなくて文学的にも山羊を殺めてきたんじゃないかって。 東:そういう実験のスケールの大きさですよね。文学的な実験を岡井さんはずっとされてきたわけだから、それは山羊でなければならない。牛でも違うんですよね、牛は家畜だから。 岡井:そうですねえ、牛だと家畜だもんね。まあ山羊も家畜の場合もあるわけだけど。 東:山羊ってどこか野性味を帯びてますよね。『三びきのやぎのがらがらどん』っていう、魔物に打ち克つ山羊の絵本があるんですけど、やっぱり山羊って、そういうスケールの大きい力を秘めてるような動物です。 穂村:羊よりも山羊なんだね。 岡井:スケープゴートっていうときの「ゴート」も山羊ですよね。あれ結局野に放つわけでしょう。強いんですよ、やっぱりあれね、きっと。 穂村:この歌は「白き牝山羊を」じゃ、やっぱり短駄目なんだね。 東:若き日を語りつつ、黒山羊をまた狙っている怖さがあります。 岡井:実験やってる人は悪者なんだよね、ある意味からいうと。でもそれを自覚してたら、毎日生活できないから、まあ忘れてるんだろうねえ、きっと。 穂村:なんか人類のためにっていうことなんだけど、そういう感覚そのものが今希薄化しているから。文学的にも、そういう感覚があった時代の眩しさっていうのかな。今みんな自分のために短歌を作るけど、「第二芸術論」で叩かれた短歌のために実験するみたいな、そういうニュアンスはないですよね。 岡井:やっぱり、今の時代で自然に人間がそうなってったんですかね。 穂村:そうですね。 東:小さい頃からの教育方法とかも、昭和の親って怖くて、どなったり叩いたりしてたけど、現代は絶対どならず、絶対に叩かずっていうやり方みたいなものが正しいっていうのになっているので。そういうふうに育つとやっぱりもう、山羊は殺さないですよね。 岡井:そうですねえ、僕ももちろん子供叩いたことなんかないけど、実際に叩けない。僕の父親が僕を叩いたときの、そういう感じにならないんだなあ、やっぱり。 東:でもその方が生きやすいというか、子供にとっては育ちやすい。 岡井:そうですね。 動物をみて、かつて実験用に殺した動物を歌にする岡井隆がいる。 わたしはこの「山羊」をめぐるやり取りを読みながら、俳句でこんな風に山羊を詠んだ俳句があったろうか、つまり東さんが言うところの「山羊って、そういうスケールの大きい力を秘めてるような動物です」という山羊なのだが、そういう山羊はかつて俳句に登場しただろうか。。。 そんな風にわたしの中で山羊のことが発展していくことも面白い。。 で、 いま、武藤紀子さんの「宇佐美魚目の百句」を校正中なのだが、そこに登場する山羊がいた。 山羊の頭のしこる遠景障子貼る 宇佐美魚目 というのがあって、この「頭のしこる」「山羊」というのが、ちょっと尋常ではない山羊のような気がしている。そもそもこの山羊にたちどまった契機が、岡井隆さんが詠んだ「山羊」にまつわる話からのことであったと思ったのだった。 朝吹真理子さんの短歌、藤田貴大さんの短歌、まで読んだのであるが、小説を書く朝吹真理子さんの言葉へのこだわり方、言葉よりも肉体に主軸をおいて活動する演劇者としての藤田さんがやすやすと短歌を超えた短歌的な面白い歌をつくってしまうことの驚き、ものすごく刺激的な一冊であることは間違いない。 また、おりおり紹介したいと思う。 オオバンもまた行ってしまう。。。
by fragie777
| 2021-03-09 19:06
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