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2月28日(日) 草木萌動(そうもくめばえいずる) 旧暦1月17日
梅に目白。 この日、梅の木にたくさんの数の目白がいた。 花の蜜を吸う、とあるから梅の花の蜜を吸っているのだろう。 やっと撮った数枚である。 動きがはやくてしかも小さいので、花に隠れてしまう。 この梅の木に少なくとも7羽以上はいる。 わかります? 我が家にもときどきやってくるが、近づいただけで逃げてしまう。 「現代俳句手帖」3月号 「震災」の特集である。 自由詩10篇・短歌50首・俳句50句 がアンソロジーで紹介されている。 山田亮太さん 斉藤斉藤さん 関悦史さんのそれぞれの編によるものだ。 この三人の方のたちが、「事後と到来のただなかで」と題して討議をされている。 震災を詠むということについて極めてセンシティブな問題として論議しているのが興味深い。 本書で、福田若之さんが連載「句がふえるあいだ」で、津川絵理子句集『夜の水平線』をとりあげておられる。 タイトルは「あたかもごく自然な」。 一読にあたいする評であるが、ここでは抜粋で(は十全ではないのだかが)一部を紹介する。 それがどこまで時評的な抽象化にすぎないことは承知のうえで、いま仮に、俳句というジャンルのうちに、今日ひとつの様式的なスタンダードを求めることができるとしてみよう。津川絵理子『夜の水平線』(ふらんす堂)の句群は、まさしくその中核に属するものとみなすことができるだろう。なおかつ、これらの句は、そうしたスタンダード自体の更新を予感させる。 (略) ここでとりあげるのは、むしろ、同じ質の巧みさを帯びていながら、よく読むと、言葉のつながりに何かそもそも不安定なところがある句だろう。ひとは、《断面のやうな貌から梟鳴く》という一句を前に、ぬっとしたふくろうの顔立ちを思い浮かべながら、ただちに納得してしまえる。しかし、何の「断面」ともなしに、ただとにかく「断面のやう」とは、どういうことだろう。さらに、「貌(貌に傍点)から(…)鳴く」とは、どういうことだろう。津川絵理子は、こうした冒険的な言葉のつながりを、俳句の定型のたしかさによって、あたかもごく自然な言い回しのように、読み手に認めさせてしまう。スタンダードの更新は、その身ぶりにこそ予感される。たとえば、《暮れかかる空が蜻蛉の翅の中》の「の中」は、平らかな広がりを表すことにより、《一月の川一月の谷の中》などの、飯田龍太の数多くの句における「の中」とは、根本的に異なっている。 明日からもう三月である。 今日は、片山由美子著『色の一句』より、今日の日付の句。 如月の水にひとひら金閣寺 川崎展宏 金閣寺といえば、外国人にも知られているほどの京都の名所だが、池に映った金閣寺の美しさを俳句にするのはなかなかむずかしい。この句がいわゆる絵葉書俳句を超えることができたのは、中七のひらめきである。如月の月は陰暦二月。春の穏やかさにはまだ遠い。冷たそうな水面に映った金色の影を「ひとひら」と把握したところに技がある。(『義仲』)季語=如月 今年は(昨年もだが、、、)お雛様をかざらないで済ませてしまいそうである。 雛さまにコロナを移していけないから、、、、ということにしておこう。 来年はぜひ飾ることができる年となってほしい。 もうすぐ北に帰る鴨。
by fragie777
| 2021-02-28 20:50
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