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2月5日(金) 旧暦12月24日
春の光をまとった青鷺。 木の枝にいた鶫。 飛んでいる鶫をみたのははじめて。 これも鶫である。 わたしの真上の枝に飛んできて止まった。 最近、鶫によく会う。 今日もセーターを後ろ前に着て、出社。 仕事をしている途中で気づいてあらあらと。 白熊のように見えるたっぷりしたセーターなので直すのも簡単。 スタッフのPさんと打ち合わせをしながら、右手をぬき、左手をぬき、セーターをぐるりと回して、ふたたび手を入れたというわけ。所要時間は、一分もかからなかった。Pさん気づいたかしら。。。 第11回田中裕明賞の冊子が出来上がってくる。 11回目から色を変えようと言うことで、ブルーからグリーンへ。今回は112頁。定価=500円+税 お待たせしてしまった。。 授賞式は3月14日を予定しているが、受賞者の生駒大祐さん、選考委員の佐藤郁良、関悦史、髙田正子、髙柳克弘の各氏のみで授賞式のみ。お祝いの会はおこなわず、記念吟行会もなし。しかし、インターネット句会を行う予定。受賞者、選考委員、応募者(希望者のかた)、著作権者の森賀まりさん、それぞれにお願いする予定である。また、応募者の方々には、受賞句集をはじめとして、田中裕明賞について、あるいは句集上梓にまつわること、などなど従来どおりお言葉をいただきたいと考えている。「田中裕明賞創設」の当初の目的のひとつである「句集について存分に語られ、評される場」でありたいと思いは常にあります。それらは電子書籍版「第13回田中裕明賞」に収録される予定です。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装 100頁 二句組 初句索引付き 渡辺鮎太(わたなべ・あゆた)さんの第3句集である。第1句集『鮎』(1991刊)、第2句集『十一月』(1998年刊)ともにふらんす堂より上梓されている。 渡辺鮎太さんは、1953年埼玉・川口市生まれ、現在は草加市在住。1980年「沖」入会、1985年「沖」同人、1987年「門」創刊に同人として参加。1998年、第2句集『十一月』にて「中新田俳句大賞」を受賞。昨年に久しぶりにお電話をいただき、この度の句集上梓となった。23年ぶりである。20代から俳句をはじめ、第1句集『鮎』に寄せた鈴木鷹夫氏の序文では「その類い稀な詩質を以て『門』の一隅を照らす恒星的存在」といわしめた俳人である。どうされているのだろうと折にふれて思っていたのだが、俳句はずっと続けられていたということをうかがって嬉しい思いがしたのだった。もとより巧い俳人である。今回の句集は句数を厳選しての第3句集となった。栞を摘里葦彦氏が寄せている。タイトルは「『人恋し』と詠う句」。抜粋して紹介したい。 (略) 『万葉集』の恋歌は歌垣的作法で作られていると聞くと、和歌というのも庶民的なもののように感じられる。 和歌から連歌の遊びが生まれ、連歌の発句が独立して「俳句」が生まれた。ということは、「俳句」も歌垣的習俗の末裔である。 三千年つづく習俗の末端に、この渡辺鮎太の句もある。 渡辺鮎太の『蟇』の句は「座」にも「結社」にも属していない孤詠だが、しかし、やはり「人恋し」と詠っているような気がする。 例えば─ 川越えてまた初蝶となりにゆく 金銀はかく使ふべし春の海 桃配山のふもとの白日傘 長安のはるかに朱し蝸牛 ─などの句からは「時間的・空間的な人恋しさ」を感じる。 実はこの句集は第3句集ではあるものの、こういう「あとがき」が付せられている。 本句集は一九九一年に出版した『鮎』と一九九八年に出版した『十一月』に続く第三句集である。第一句集、第二句集の一部に、その前後に作った句を加えたcompilation である。 ということは、まったくの新作のみではなく、第1、第2に収録してある作品も呼び起こし、そこに加えているということである。それはそれでひとつの試みである。とわたしは思う。 いま『蟇』を読んでいて、いいなと思った句のいくつかが、『鮎』に収録されていることを知った。 たとえば、 春の川はるかに春の海に待たれ 手を突いて沖を見てゐる薄衣 妻と子の遠くなりたる立泳 八月が減るクレヨンの青が減る など。ふたたび句を時間の彼方から呼びもどし、人々の記憶のに焼き付けようとする試み。。 萩の影映る障子を開けて萩 ひと遠くして身ほとりの秋桜 胸中の阿修羅と梅を観てゐたり うしろから春愁の眼を隠されし 眠し眠し桜となつてゆくからだ 蜂の仔を喰ふにんげんに生まれけり 美しき毛虫焼かれてゆくうねり すぐ死ぬと皆に言はるる亀の子よ 落鮎をきれいに食べて山の闇 何の哀しさ一望の麦の秋 田を植ゑて日本の風うすみどり 鼬走りしこと美しく語りをり 担当の文己さんが好きな句である。 「自転車の婦人の蕗に擲たれけり」は思わず笑ってしまいました。と文己さん。 萩の影映る障子を開けて萩 この句は校正スタッフのみおさんも好きな句、わたしも〇をつけた句。目の前の事実を簡潔に詠んだ一句である。障子を開け放った途端、萩の花の色とその咲き乱れるさまが目に飛び込んでくる。さらに秋の空気のしんとした冷たさ、光のすきとおった加減、萩にはじまって萩におわる一句となっているがその間の時間のささやかな経過に読者は萩の咲く秋の情趣をたっぷりと味わうという仕組みである。さりげなく詠まれているがじつに巧みな一句だ。 ひと遠くして身ほとりの秋桜 この一句も叙法がたくみだ。一句のなかにたっぷりとした空間がある。遠くに人がいて、自身は秋桜の傍らに立っている。あるいは読み方によっては、「ひと遠く」というのが、眼前に見える景であるということもあるが、心理的な遠さを示しているようで、秋桜への親しみがいっそう思われる。身ほとりで可憐に揺れる秋桜。人間よりもはるかに愛おしいもののように思えてくる。 何の哀しさ一望の麦の秋 この一句もなんだか心くすぐられる一句である。「何の哀しさ」なんてずいぶんおセンチな措辞であるが、「一望の麦の秋」とあると、麦が熟し実りはじめた充実感がに満ちた景が目の前にひろがる。文句のつけようのない眼前の景である。新緑の季節、麦の美しい彩り、すべては神の摂理のもとに整っている。「何の哀しさ」という感情はいったん棚上げされるのであるが、その豊かな自然の景に立つ我にやがて言われもないような一抹の哀しみがわき上がってくるのだ。いまふっと思ったのだが、この景が、麦でなくて米だったらどうだろう。稲の秋とかね、ああ、やはり「麦の秋」のほうが断然心がくすぐられる、イエスの「一粒の麦」などの喩としての「麦」などを呼び起こすからかしら。「麦」はその本質において哀しみを宿す、なんてね。 蛇泳ぎをり腰らしきところあり この句はわたしの好きな句である。最近地元の仙川沿いを歩くようになって、蛇が泳ぐのを目にするようになった。大きなアオダイショウが泳ぐ姿は美しいと言ってもいいくらいだ。見事な泳ぎっぷりだ。速度もある。あっという間の出来事で、しかし、蛇が泳ぎ去ったあともその泳ぐ姿は頭のなかに焼き付けられていてなんども蘇る。しかし、凡庸なyamaokaであるので、それ以上の観察結果は望めない。この句を読んだとき、ふたたびわたしの蛇を映像として思いうかべた。そういえば、腰らしきものがあったような、その腰を華麗につかって泳いでいったような気がする。今度蛇にあったら腰をしかと確認しようと思った次第である。「蛇泳ぎをり」でいったん切って、「腰らしきところあり」でふたたび蛇の泳ぐ姿を想起させる、蛇の泳ぐ時間経過を思わせて巧みだ。 をとつひの雪にきのふの雨の跡 この一句も目の前にみえているものをさりげなく詠んでいるのだが、上手い一句だとおもう。説明するまでもないのだが、一昨日雪がふった、そして昨日は雨、今日は晴れているのだろう、きっと。晴れていないまでも雪も雨も降ってはいない。そんな季節はすでに真冬ではないだろう。だから季題としては春の雪を詠んだものだ。それをこんな風に一句に詠みとめることが、やるなあって思ってしまう。しかも言葉に無理をさせていない。きわめて自然であり動詞もつかわずに端的に表現している。 こんな風に句集『蟇』は読み手を飽きさせない句集である。収録句数が厳選されていて数すくないというのもいいのかもあしれない。けっこう心が掴まれてしまう句が多かった。 本句集の装幀は、渡辺鮎太さんの希望を、君嶋真理子さんが具体化させたもの。 だから、鮎太さんの自装と言っていいかもしれない。 いろいろとこだわりがおありで、すみずみまで鮎太さんの意匠によるものだ。 クロスは金色。 金の箔押し。 用紙、クロス、すべて外回りに用いたものは光沢のあるものであるが、それが決して派手にならず落ち着きとある暗さ(?)を纏っている。 不思議である。 それが味わいとなって、いい本となったのではないだろうか。 美しき毛虫焼かれてゆくうねり 詰まるところ、渡辺鮎太とは「人恋しさ」を五・七・五の古来からのリズムに載せて詠う、センチメンタリストといえよう。 (栞・摘里葦彦) 「センチメンタリスト」とは、まさに。。。 蟇で御座る雨の夕べが好きで御座る タイトルとなった一句。 きっとこの「蟇」は、渡辺鮎太さんの自画像であると、わたしは思っている。 目下、渡辺鮎太さんの評論集も鋭意作成中である。 タイトルは「蕉門の人々」 楽しみにしていただきたい。
by fragie777
| 2021-02-05 19:52
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