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ふらんす堂編集日記 By YAMAOKA Kimiko

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わからないから、俳句をしている。

2月3日(水) 立春・初午 旧暦12月22日


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わからないから、俳句をしている。_f0071480_17560042.jpg

立春である。

写真は桂の木。


「ふらんす堂通信167号」の編集後記にスタッフの緑さんが、「林檎のコンポート」をつくったことを簡潔に書いている。それを見たパートのIさんが、「林檎はどのくらいに切るのですか。水はどのくらい?」などなど詳しく聞いている。そばにいたPさんも興味を持ったらしく話に加わっている。
そもそも「林檎のコンポート」(このコンポートっておしゃれな名前だけれど、つまりは砂糖煮のことである。)を緑さんが造るようになったその契機は、林檎の皮を剥いて食べるのが面倒なので、えいっ、コンポートにしちまえ、っていうことらしい。林檎の皮をむくことがぜんぜん面倒ではないyamaokaには、かえってコンポートにする方が面倒なような気がするのだけれど、緑さんにとってはいっぺんに皮を剥いて、煮てしまったほうがラクチンなようなのだ。スタッフのPさんも、林檎の皮を剥くのが面倒くさい、と言う。
訳わかんないよ、林檎の皮なんて簡単に剥けるじゃん、わたしは林檎の季節には毎朝ヨーグルトに入れて食べるので皮を剥いている。10秒もかからないで剥けるよ。と言いたいところだが、人間はそれぞれ面倒臭いって思う部分が同じではないし、違うところが面白いので、つまりはフーンて聞いている。
ああ、林檎のコンポート、食べたいな、でも作ってまで食べようとまではおもわないyamaokaである。

あなたは、どっち。
林檎の皮をむくのが面倒臭い派?、それともぜんぜんヘイチャラ派?






新刊紹介をしたい。


水岩瞳句集『幾何学模様』(きかがくもよう)



わからないから、俳句をしている。_f0071480_18212858.jpg
四六判ソフトカバー装帯あり 178頁 二句組 


著者の水岩瞳(みずいわ・ひとみ)さんの第1句集『薔薇模様』(2014年刊)につぐ第2句集である。水岩瞳さんは、名古屋市生まれ、名古屋市在住、現在は「古志」同人、現代俳句協会会員、中部日本俳句作家会会員、短歌結社「塔」所属、中部ペンクラブ会員、2004年には、小説『あの夏のニセコから』を刊行、2014年には古志俳論賞を受賞されている。
本句集は2014年から2020年夏までの作品を収録。句集名の「幾何学模様」は、〈エプロンの幾何学模様レモン切る〉に拠る。

「あとがき」で、俳句に対するご自身の思いを率直に書かれているので、すこし紹介したい。

『幾何学模様』は、私の第二句集です。二〇一四年から二〇二〇年夏までの句を収めました。第一句集『薔薇模様』のラストの句、「混沌はわたしの証し春の泥」の立ち位置から再出発した私には、「俳句とは何か」という問いが今も常にあります。小説を書いていた時、小説とは何かという問いはありませんでした。三年前から始めた短歌も、短歌とは何かという問いはありません。小説は勿論、短歌も紆余曲折を経て、今では何でもありになりました。何でもありとは、表現の多様性であり、表現の多様性があってこそ、文学です。
でも、俳句は、紆余曲折しながらも、どうもまだ何でもありではないようです。だから、「俳句とは何か」「俳句は文学なのか」という問いが付きまといます。俳諧は、もっと自由なものではなかったのか。今の私には、芭蕉が言い残した「俳諧いまだ俵口をとかず」(『三冊子』)が一番心に届きます。芭蕉ほど作風を変えた人はいません。作風の変遷を繰り返しながら、俳風を打ち立て、不易流行を宣布し、最後は軽みについて力説した芭蕉です。しかし、晩年の俳風が芭蕉の考える究極の作風というわけではない。そう誤解されることを恐れて、「俳諧いまだ俵口をとかず」と言い残しました。この言葉は、俳諧の可能性は無限にあると、芭蕉が固く信じていたということではないでしょうか。
明治以降は、自由律、客観写生、新興俳句、人間探求派、社会性俳句、前衛俳句などが登場し、俳句表現の革新の歴史があります。私は個々の俳句に感動しながら、しかし本に「俳句はこういうものだ」と書いてあると、「本当にそうなのだろうか」と、思ってしまうのです。だから、今も俳句がよくわかりません。

「俳句とは何か」という問をしつづけながら、俳句を作っておられる水岩瞳さんである。

 海底に六色クレヨン三月忌
 マフラーを巻いて世間に紛れ込む
 やはらかきひとのこころやふきのたう
 京嫌ひなれど今年も鉾祭
 色変へぬ松にも変はりたき心
 みちのくの魂が宿りし氷柱かな
 いつまでもどこかが少女野紺菊
 雨の日の日記一行辛夷咲く
 風死せり絵筆の声を今に聴く
 無常とは慈しむこと蕗のたう
 八月の金魚ラヂオを聴いてゐた
 新涼の畳よろこぶ猫の足
 今日もまたふくら雀の好きな枝
 禍や会つておかねばならぬ朱夏

担当の文己さんの好きな句である。

 マフラーを巻いて世間に紛れ込む

この句はわたしも好きな一句である。この句は校正のみおさんも好きな一句であるということ。ふらんす堂では人気の一句だ。マフラーってそれはもういろんな種類のものがあるし、わたしも20本くらいもっいるけど、言ってみればやや長めの長方形を主体としたシンプルなかたちの首にまくものだ。首が寒いと心許ないものであるけれど、こうぐるぐると巻き付けると暖かいし自分を守ってくれるものともなる。それは物理的もそうだけど、心理的にもマフラーがあるのとないのでは俄然ちがう。向こうから会いたくないヤツがやってきたらマフラーに顔をうずめてやり過ごす。マフラーは頼りになるグッズである。この句「世間」がいい。「世の中」でもなく、「この世」でもなく「世界」でもない。「世間」を広辞苑でひくと、仏教語で「有情の生活する境界」とあって、つまり「世間」って人間のややうっとおしいさまざまな意識(目線)が横行している、そんな境界である、そこに「紛れ込む」にはマフラーを巻いていくのが一番。意識的でくったくのある女性像がみえてくる。

 いつまでもどこかが少女野紺菊

この句も印をつけた一句。「野紺菊」がいい。野菊を代表する菊であり、野山に生える親しみやすい菊だ。「紺」という字があることによって、女学生に制服の色を連想させ、また、成熟にはいたらない固い色を思わせる、嬌態の色からはほど遠いものだ。固さをのこした少女のイメージである。「いつまでもどこかが少女」という措辞は、成人した女性の多くが誰もが感じることなのかしら、わたしはあえて尋ねたことはないのだけれど、どうなんだろう。ただ、この作者はそれを肯定的にも否定的にもとらえているわけではなく、ふっと感慨のように野紺菊の前に立ったときに思ったのだろう。いや、あるいは成熟しきれない、大人になりきれない自分をややもてあましている、そんな思いがあったのかもしれない。わたしのように「少女を自分のなかに飼っているのよ」なんて豪語している人間は、案外少女らしさのうぶな心をどっかにやってしまっている可能性があるけれど、この作者には少女の純な心があって、時にそのことによってかなしい思いをすることもあるかもしれない。だから野紺菊は作者を惹きつけるのだ。

 鶏頭と並んで立つて意見言ふ

これはわたしの好きな句。笑ってしまった。誰かにもの申しているのである。その場の空気は、なごやかではない。かなり緊迫しているのかもしれない。しかし、意見を言っている本人は大まじめであるのだけれど、そばに控えているのが鶏頭である。まるで自分の仲間であるかのようにその鶏頭と並び立ち、意見を言っている自分を描いているのだ。鶏頭だから仲間に引き入れてみたくなるのもわかる。確かに鶏頭の丈ってほぼ人間の身長と競っているし、その立っている存在感もいっぱしのものがある。草花というよりも、なにかもっと別の生きもののように思えてくる。鶏頭をこんな風に詠むなんて、この句、やっぱり面白い、好きだわ。

 葉牡丹の渦がゆるんできて夫婦

これは校正者の幸香さんの好きな一句。「ご夫婦で散歩中に見かける 景を想像しました。この葉牡丹が長年連れ添った良い間柄を象徴しているようで もあります。」と幸香さん。わたしも○をつけたのだが、幸香さんの鑑賞どおり、「ゆるんできて」というところに、熟年夫婦の関係がうまく詠まれているなあって思ったのだが、若い幸香さんがこの句を選ぶとは、恐れ入りました。

ほかに、〈京に飽く京のお人と無月かな〉の句も面白いと思った。「京に飽く」と句集の見出しにもなっていて、「京(都)に飽く」なんていうことがあるのだろうか。とおもったのだが、「京のお人」ってあって、ああ、なるほどと納得。「京のお人」っていうことばもはんなりと京らしい。しかも「無月」がなんとも心憎い。京都に飽き飽きしているお人には、「無月」こそ、意味深い、などと関東女のはんなりしていない雑駁なyamaokaは思うのです。



本句集の装幀は、君嶋真理子さん。

水岩瞳さんのこだわりをうまくデザイン化した。


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グリーンがテーマカラーか。

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カバーをはずしたところ。


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扉。


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 桜蕊降るアンチテーゼの嵩ほど


俳句を始めて十四年、まだ俳句がよくわからないという私の疑問に、池田澄子先生は、「私もわかりません。わからないから、俳句をしているのです。」と、答えてくださいました。わからないから、俳句をしている。この御言葉に、私は大いに納得し、大いに励まされました。(「あとがき」より)
 


句集を上梓された水岩瞳さんから担当の文己さんへメールををいただいた。


お好きな句を14句もお知らせいただき、有難うございました。
私は、第一句集の時と同じように、第二句集も、読んでくださった方の選をまとめたいと思っています。
最初の読者であり、最初の選のお知らせが。横尾さんでした。
ちなみに第一句集『薔薇模様』の読者の選ベスト3は、次の句でした。



 どろどろのマグマの上のかたき冬
 円かなる月の単純愛すかな
 混沌はわたしの証し春の泥


水岩瞳さま
この3句、わたしよく覚えています。
この度の句集『幾何学模様』のベスト3は、何という句になるのでしょう。
結果が出ましたら、是非におしえてくださいませ。
前句集につづき、ご縁をいただきましたこと、感謝申し上げます。








わからないから、俳句をしている。_f0071480_19492924.jpg

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by fragie777 | 2021-02-03 19:51 | Comments(1)
Commented by math at 2021-02-04 13:14 x
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