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1月30日(土) 雞始乳(にわとりはじめてとやにつく) 旧暦12月18日
この第七十二候の雞始乳(にわとりはじめてとやにつく)の意味は、春の到来を感じた鶏が、卵を生み始める時期であるということ。 今日はそんな春を予感させるような明るい日差しの一日だった。 風は冷たかったけれど。 真青なる空で一日がはじまった。 仙川沿いを散歩する。 鳥たちが元気だ。 鳥って不思議だ。 人間が鳥を意識しないで側を通り過ぎても逃げないのだが、意識を鳥に向けると逃げてしまう。 人間の視線に反応するのか、それとも人間の意識に反応するのか。 今日のわたしの感触は、視線よりも意識ではないかって思った。 草むらから小さな鳥が飛び出した。 雀?って思ったけれど、カメラで撮ってみたところ、 これはアオジである。(すこし前に本井英氏におしえて貰った鳥) 目のところが黒いのはオス。 近くにいたのが鶫。 少し前に仙川沿いでもみたが、今日はこの鶫をほかの場所でもみた。 このへんにはたくさんいるのかもしれない。 ヒヨドリ。 頭がくしゃくしゃでいたすらっこみたいで可愛い。 声はなんともうるさいけれど、、、、 椋鳥。 たくさんのムクドリがあっちこっちにいた。 集団行動をする鳥だ。 こちらも集団行動だ。 群がっている雀。 とても元気な寒雀たち。 そのうちの一羽。 雀は人の視線に一番敏感かもしれない。 身近な鳥であるけれど、 近づくことは難しい。 今日の翡翠。 これはセミコちゃん。(セミオくんにも会ったのであるがあっという間に飛び去った) 行く手に氷がはっていた。 溶けないところを見るとやはり寒いのだ。 なかなか美しい模様である。 わたしは何度も踏みしめてその音をたのしむ。 氷に一期一会というのもおかしいけれど、こうして氷を踏む音を聞くのはいったい何年ぶりかしら。 小さな頃は踏んでその音をたのしんだけれど、これから先いつこんな風に氷に出遭って、踏みしめることができるかしら。 なんて思って子どものように何度も何度も踏んだのだった。 京都新聞に神野紗希さんが、「俳句は、いま」と題して時評を書かれている。ふらんす堂刊行の書籍にも触れているので抜粋して紹介したい。 タイトルは「何をどう『見る』か」 対中いずみは、新著『シリーズ自句自解Ⅱベスト100 対中いずみ』(ふらんす堂)で、自作の解説を通し、「見る」が言葉へ錬成される秘密の創作過程を言語化する。 「小一時間ほど坐っていると向こうからいろんなものがやってくる。虻が来て、蝶が来る。(略)そこにある石ころや落葉が、ぐっと迫り上がって見えてくる」とは、〈この道は虻とおほる道秋蝶も〉の自解。目の位置を定めることで、虻や秋蝶の見え方が変わる。距離がぐっと近くなる。(略) 津川絵理子の第3句集『夜の水平線』(ふらんす堂)は、計らいを感じさせない意外な季語のあっせんにより、雑味のないリアリティーを立ち上げる。〈生きのよき魚つめたし花蘇芳〉〈聞香のひとりは僧や初氷〉〈香水や土星にうすき氷の輪〉(略) 彼女には世界がどう見えるのか。人間の認識の不思議を思う。 ほかに、坊城俊樹第5句集『壱』(朔出版)をとりあげている。そして、 何をどう「見る」か。表現はそこから始まっている。 と。 (一眼レフが欲しいな……)←心の声。
by fragie777
| 2021-01-30 21:23
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