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1月27日(水) 旧暦12月15日
このところ気持ちがあせり気味である。 しかも、すこしのことに興奮しがち。 業者さんと電話をしていてややけんか腰しになっている自分に気づいた。 どうも、いかんわ。 と、 いうことで、今日はあえて歩いて出社をすることにした。 もちろん、仙川沿いを歩く。 久しぶりに水鳥たちを見ることもできる。 今日はあたたかく歩いていると風が気持ちのよいほどだ。 仙川の水鳥たちもたいへん愉しそうで元気だった。 ああ、やっぱり来て良かった。 いつの間にかわたしの気持ちもゆったりとしてきたのだった。 その仙川の叢を飛ぶというより走っている鳥がいた。 一瞬止まったところを写真にとる。 鶫(つぐみ)!? きっとそう。。。 鳩よりすこし小ぶり。 食べると美味しい鶫だそうだ。 鶫飛び木の葉のやうにさびしきか 細見綾子 城の崖飛ばずに鶫駈け登る 茨木和生 焼鶫仰天の目を瞠りたる 橋本鶏二 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装帯なし 64頁 佐々木富久子(ささき・ふくこ)さんの回顧録である。 佐々木富久子さんは、1931年東京の日本橋に生まれた。裕福な家庭に育ち幸せな少女時代を過ごしていたが、14歳の時に東京大空襲のB29による爆撃に遭い、家は焼かれ命からがら家族共々に長野の親戚の家に疎開されたという経験をお持ちである。その少女時代のことを中心に思い出すままにまとめられたのがこの度のエッセイである。 目次はおおきく四つにわかれている。 私の立雛物語 「昭和二十年三月十日」 思ひ出は遠くになりて思ふもの 疎開地を詠んだ句(『流れ星』より) エッセイの量はおおくはなく、大きな活字で組まれ、たいへん読みやすい。 少女時代というかなり昔の限られた時間のエッセイであるのだが、その記憶は細部にわたるまで鮮明でたいへん生き生きしている。過酷な戦争体験について語られているのだが、佐々木富久子さんという人間の持ち前の向日性によって悲惨さを描きながらも、穏やかなゆとりがあって読者の心を硬直させないのがいい。それは不思議なくらいである。幸せに育ったその思い出が佐々木富久子さんをはぐくみ、どんなにたいへんな現実に直面してもおおらかな明るさで救われている。そんなことを思わせる好エッセイ集である。 カバー表紙の立雛の装画は、著者の思い出のもの。 「私の立雛物語」の項は、長くないのでここに紹介しようと思う。 昭和の戦前のよき時代の東京人の生活風景にふれ、また文章から作者のたたずまいが彷彿とされるものである。 私が七歳の頃でした。近くの質屋の次男で、水谷春夫さんと仰る方が居ました。 その頃米問屋の若旦那・奥村土牛さん、俳人の酒井三良さん、木津柳芽さんは父の親友で、よく私の実家にもお見えになりました。父は美術好きの書家で、美大生の春夫さんの学費の援助をしたり何かと相談にのって居ました。春夫さんは卒業制作の際、金地の色紙に見事な美しい立雛をお描きになり、父に御礼の品として下さいました。 私がその絵の、とても華やかで美しく気品ある立雛様に見とれて居ますと、春夫さんをお兄様のように慕って居りました私のために、「これは富久子の立雛にする」と父からの嬉しい言葉。家には段飾りの素晴しいお雛様がありましたが、毎年私は玄関の床の間に私の立雛様を桃の花と、私の好きな品とを飾って喜んで居ました。 時は移り、戦争がはげしくなり、のんびりとお雛様を飾るどころではなくなって、三月十日の東京大空襲で家もろともすべて焼失して終いました。 戦後になり姉の小学校一年から六年までの受持ちだった師範出の若く美しい竹村先生に私はとても可愛がっていただきました。先生はその後結婚なさり茶道の先生になられたので、早速入門、弟子になりました。 ある三月に私の立雛の絵が先生の茶室に飾られて居るのを見て、嬉しいやら驚くやら。なぜこの絵があるのですかと先生にお聞きすると、私の三歳年上の姉が希望校の日本橋高女に合格した際、父は大喜びで、受持ちの竹村先生に、家にある絵でお好きな絵を御礼として差し上げると申しますと、この立雛と仰られ、先生の本郷の家にお嫁入りすることになったそうです。そして本郷は戦災には遭わず、三月には必ず飾ってとても大事にされて居らっしゃると伺って、私の立雛様とは申せませんでした。 それから何年か経ちチャンスが来ました。先生がお茶会で弟子の中から初めて、家元土肥宗宏先生の茶会で正客を務める様にとお話があり、それを私に任命されました。「とても出来ません」と辞退しましたが、先生は御褒美に希望の物を、と仰られたので、「立雛様をお願い致します」と申し上げると、「家元が及第点をお付け下されば」とのこと。茶会の日は丁度三月三日。後に家元からは、「とても自然で格調高く貴女の感性の豊かさでよい正客でした」とのお言葉をいただき、ほっとするやら嬉しいやらでした。 この様にして大好きな立雛様は私の許にもどりました。私は米寿となりましたが、立雛の金紙色紙は輝き続け、美しいお姿は年を取らず羨ましいかぎりです。 水谷春夫さんはその後学校の美術の先生となられ、今は消息はわかりませんが、よき思い出は今でも輝いて居て幸せです。 「立雛」の画をめぐってのエピソードである。 本著には、たくさんのモノクロの口絵が挿入されている。 それはやはり少女時代のもので、幸せで豊かな暮らしぶりが分かるというもの。 これはその一部であるが、まさに昭和の懐かしい風景である。 わたしなどもこの空気感はなんとなく分かる。 佐々木富久子さんは、2017年に小社より佐々木巴里という俳号で、句集『流星』を上梓されている。 今回のエッセイ集もそのご縁によって刊行されたものである。 本著の最後には、句集『流星』より「疎開地を詠んだ」18句を抄出し、収録しておられる。 何句か紹介したい。 人生の出逢ひのいくつ福寿草 生きぬきて二十世紀よ去年今年 三姉妹昔にかへり野に遊ぶ 村中がげんげかつての疎開先 若鮎の岩にすり寄る天龍川 今年一月十日で卒寿になりますので、記念にと思い書きました。 夫春雄が逝きましてより二十年、病気も怪我もせず日々を過ごせましたのも、皆様に守られて居るからと実感する日々です。人生の卒業はいつの事やら……。でもその日まで楽しい思い出を糧にこれからもよろしくお願い致します。 「あとがき」を紹介。 担当のPさんは、本著の製作のために大田区にある佐々木富久子さんのお住まいを何度もお訪ねしたのだった。その度にいろいろなお話を伺って豊かで愉しいひとときを味わったということである。 装幀は和兎さん。 私(わたくし)とともに立離年かさね 富久子 『思ひ出は遠くにありて思ふもの*昭和』は皆さまからお電話やお手紙をたくさ い頂いて嬉しい事です。 太田かほり様から頂いたお手紙が今の私の気持ちをよく表していましたので、書 き記します。 と佐々木富久子さんは、Pさんにお手紙をくださった。そして、俳人の太田かほりさんからお手紙を太田さんのご了承を得て、披露してくださった。 以下、太田かほりさまのお手紙である。紹介します。 「第一章 私の立雛物語」このエピソード故にこの一冊を思い立たれたようなす てきなお話です。お雛様とは真反対の東京大空襲とはさんでの再が一つの山場。 お茶会でのお正客のお手柄がもう一つの山場。ふしぎな縁の糸が美しく魅了され てます。その絵が御本を飾ることになり、もう一つのドラマが加わりましたね。 「第二章 昭和二十年三月十日」テレビドラマや映画はじめ資料や歴史などでは 伝えていますが、肉声で語られる真実は息を呑む迫力で、読んでいると映像を 追っているような感がいたしました。まだまだお小さい富久子様がご家族と手に 手を取り逃げまどわれる。しかしながらどうしてでしょうか。その場面を描いて も私が存じ上げる富久子様の雅びな立ち居振る舞いが少しも損なわれません。こ の印象がとても強く富久子様の人生は徹頭徹尾お上品なるのだと思ったこと。「第三章 疎開」につきましても悲惨さがなくその時代の別の面を拝見する思い でした。 一息に目を通しました。以前出版された『わたしを選んでくれてありがとう』に もそのような記憶がありますが、文学を読んでいるというよりも優しい語り口で 想い出をお訊きしているような印象でした。意図的でもなく、おそらく作者のお 持ちのいろいろなものがそのまま一冊になった漢字がいたします。きっと「下書 きもされず」と仰ることでしょう。まれな才能が文学におありになるのですね。 本当にこのような非常時に久々の晴れ晴れとする御本でした。 卒寿お見事にお示しになられ重々お祝い申し上げます。」 「太田様からこのお手紙をいただき、私の心が本当におわかりいただけた事がなに より嬉しく思います。」と佐々木富久子さん。 お写真も送ってくださった。 キャプションは、 NHKの俳句の海外旅行・ポルトガルの古城にて 平成14年 鷹羽狩行先生と。 佐々木富久子さんは、俳誌「狩」でも俳句を学ばれていたのだった。 佐々木富久子さま 卒寿をお迎えになられ、おめでとうございます。 心よりお祝いを申し上げます。 今日のセミコちゃん。
by fragie777
| 2021-01-27 18:52
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