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1月13日(水) 旧暦12月1日
暮れてゆく仙川。 暮れてゆく白鷺。 ああ、あれをしようって頭をその方向に向けると、いったい自分が何をしようとしていたのか、すでに忘れているっていうことが多い昨今である。 (ヤバイな……) って思いながらも、わたしの場合、執拗に思い出すことにしている。 すると、ああ、そうか、わたしがやりたかったことはこれだった。 と、自分の予定にたどりつくっていう、まっ、かろうじてそんな風にしてやっております。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装帯あり 212頁 二句組 著者の度会さち子(わたらい・さちこ)さんは、昭和21年(1946)岐阜県生まれで現在は岐阜県大垣市にお住まいである。昭和62年(1987)に俳句を始められ、平成2年(1990)「雲母」入会、平成5年(1993)から8年(1997)まで「白露」会員。俳句を中断され、平成23年(2011)「白露」再入会、平成25年(2013)「郭公」入会、平成28年2016)「郭公」同人。同年度、第3回郭公賞を受賞。本句集は第1句集であり、序文を井上康明主宰が寄せている。 序文を抜粋して紹介したい。「輪中の風」という副題が付けられている。 花に問ふ法師の恋や風鳴りぬ 法師とは、西行のことであろう。満開の桜に、中世の西行の遥かな恋を思い起こす。しかし、作者の眼前には風が鳴るばかりである。法師とは、西行のことであろう。満開の桜に、中世の西行の遥かな恋を思い起こす。しかし、作者の眼前には風が鳴るばかりである。西行の恋の相手は、鳥羽天皇の中宮、待賢門院璋子と言われている。(略)物語を求める作品の傾向は、この句集冒頭の一句に、既に明らかである。 相聞の丘冬蝶の吹かれくる 大海人皇子と額田王との相聞歌の舞台、滋賀県東近江市、蒲生野であろうか。冬蝶という儚い不確かな生き物が吹かれて舞ってくる情景を描く。 その地にゆかりの物語に取材するこのような作句方法は、この一集を貫く主題と言っても良いだろう。 井上康明主宰が記すように、本句集には文学や歴史や風土にねざしたさまざまな物語がその背後にある。度会さち子さんの教養の豊かさと意識の高さをさりげなく感じさせるものだ。 井上主宰は、度会さんの奥行のある作品世界を丁寧に紹介しながら、 最近の度会さんの作品は、大垣の風土に根差しながら、あるときは広やかに、またある時は繊細に情景を描き、その自在な姿勢が際立っている。 と記している。 風花や阿修羅に小さき臍のあり 眠るたび朧濃くなる湖西線 少年の喉花芽のほど光り枯菊を焚く菊の香の髪となり 担当のPさんの好きな句である。あげてある句、どの句もわたし好きである。 眠るたび朧濃くなる湖西線 湖西線には何度か乗ったことがある。琵琶湖の西側を京都から滋賀へと走る路線である。と言っても二度か三度くらいだからあまり詳しくはないけれど、初めて乗ったときに琵琶湖の風とその匂いのただなかにいるような気がして新鮮だった。琵琶湖って海とも川ともちがってそれはもう大きな湖で、わたしのような関東の女にはあるいは関東の女でなくてもちょっと特別な何か、そんな思いがしてしまう。湖西線は、その湖の傍らを走るわけでしかも京都にも近江にもつながっていて、「こせいせん」という響きもかわいらしくて、はんなりとした繊細さがある。そんな湖西線だからどこかおっとりとしていていつしか眠くなってしまうのはわかる。中七の「朧濃くなる」という措辞、まさにかつての古都が栄えた地にぴったりでその朧もはんなりとした何かをまとっているようで夢心地である。ああ、また湖西線に乗りたくなったわ。。。 枯菊を焚く菊の香の髪となり この句も雅(みやび)な味つけがされていて、趣のある一句だ。枯れた菊であっても、花は散ってしまわず葉も茎もしおれてしまっているけれど、菊の風情は十分残っているものだ。だからいっそうの哀れを感じることもなくはないけれど。そんな枯菊を焚くと、まだ菊の香が十分に顕ってくる。その菊の香りが髪にしみこんでくるのよと言ったらなんという散文的な言い方。「菊の香の髪となり」と詠めば、一発でわかる。菊の精が枯菊を離れて、焚く人の髪膚にしみ込んでその人を制圧したかのよう、「菊の香の髪とな」った人は、よき香りに支配されてまるで菊の精のよう。 鳥帰る湖しわしわと暮れにけり これはわたしが好きな一句である。「しわしわと暮れ」という表現は、海でもなく川でもなく、まさに湖のためにあるようなもの。どうしてだろうか。「しわしわと」という措辞には、そこに停滞している波の動きを思うのだ。海は大きな干満があり、躍動する動きだ。川は流れさるもの、とどまることを知らない動きだ。そういう動きに対して「しわしわ」は、当てはまらない。たっぷりと水を湛えている湖面は、さざ波はあってもそれは繊細な水の動きである。その水が細やかな陰影をみせながら暮れてゆく。上空には小さくなりつつある鳥の姿。詩情たっぷりとした一句だと思う。 老いてなほボーヴォワールよ薔薇の芽よ あらって思った一句。その昔、度会さんはボーヴォワールを読まれたのだろう。今の若者は読むのかなあ、ボーヴォワールを。度会さんは、「あとがき」に俳句を中断された一つの要因に「俳句と同時期に始めたライフワークとなる女性史の研究や職場が、時代の動きの中で多忙となったことから、次第に俳句から遠ざかってしまった。」と書かれていて、女性史を学び、女性の問題に意識的であった様子である。季語は「薔薇の芽」。「ボーヴォワールよ薔薇の芽よ」と詠んでいることから、ボーヴォワールへの思いは決して枯れていないことがわかる、いまもなお瑞々しくその心にボーヴォワールは宿っているのだろう。不肖このyamaokaも読んだ。わたしの学生時代はボーヴォワールを話題にするのはごく一般的だったように思う。じゃいまはどうかっていうと、すっかり書棚でほこりをかぶっているのである。しかし、度会さんはちがうのだ。「老いてなほ」なのである、女性問題への取り組み方が生半可ではないのだろう。だが、「薔薇の芽」の季語。そこに優美な何かがあっていいなあ、引かれる一句だ。「ずぶ濡れて女が走る芙美子の忌」も好きな一句だ。 『花に問ふ』は私の第一句集である。四〇代の初め俳句に出会ってからの中断をのぞいてほぼ二十年余りの句を纏めた。 一句目においた「相聞の丘冬蝶の吹かれくる」は、俳句の手ほどきをうけたグループで行った蒲生野吟行での句である。蕭条とした初冬の野を、兎が走り蝶がふらふらと舞っていた。その野の真ん中に立ったとき、はるか万葉集の時代からの悠久の時と一瞬交差したと感じられ、この句がふっとできた。俳句の面白さにはまることになった、最初の一句である。(略) 句集名「花に問ふ」は、第三回郭公賞の受賞作品の題名からとった。 馬場あき子の「さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり」の歌に惹かれて行った吉野の桜や谷、峰。空や水音。また重層的な歴史からくる数々の言霊に圧倒され、畏れながらの作品となった。 残された時間は多くはない。これまでの俳句を振りかえり、次の俳句への節目として、句集作成を思い立ったのだ。何よりも俳句を一層楽しむために。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 本句集の装丁は君嶋真理子さん。 作者の重層的な心の奥深さを思わせるような、装画である。 布クロスは、落ち着いた明るいブルー。 大人の女性の雰囲気がある。 見返しもブルーに。 花布は金色。 金とブルーが響きあう一冊となった。 扉。 町どこからも梅花藻の水の音 日々繰り返される暮らしの風景を、どのように新鮮に捉えていくか、歴史と物語に取材しながら、いかにその世界を深めていくか、これからの度会さんの作品に注目していきたい。 (井上康明・序より) 第1句集を上梓された度会さち子さんより、感想をいただいている。 紹介したい。 <句集を上梓されたご感想は?> 俳句を始めた40歳ころ、退職記念に句集を発行すると周りに宣言しました。 だが、それから10年後、仕事に振り回されるうちに、俳句を忘れる日々が続いたのでした。退職後、再び俳句に。句集をようやく出すことができましたが、宣言した当時の人たちは誰もいません。が、とうとう約束を果たしました。 一区切りついたが、句集は自身の句の弱点もまた明らかにするものです。これからにどう修正するか、また老いにも向かう今、俳句の課題がみえてきましたが、楽しんで俳句をつくっていきたいと思います。 <作句で心がけていること> 風景やモノに出会ったとき、私の記憶、物語が動き出すが、それらを抑え鎮まるのを待ちます。 言葉におぼれず、平明な句をと心がけています。 「言葉におぼれず、平明な句を」というのが素晴らしいと思います。 句集のご上梓、おめでとうございました。 眠る猫
by fragie777
| 2021-01-13 21:32
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