カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
1月12日(火) 旧暦11月29日
寒雀。 雀たちはこの寒さのなか、とても元気だ。 このところバッハのチェンバロ協奏曲ニ短調にはまっている。 たまたまダウンロードをしたのだが、聴いているといまの自分の波長にあっているのか心地良いのだ。 チェンバロ協奏曲といっても、グールドのピアノで指揮はバーンスタイン。 第一楽章から、第三楽章までどれもわるくないのだけれど、とくに第一楽章がいまは好き。 太極拳もこれを聴きながらやり、車の運転もこれを聴きながらやり、夜道を歩いて帰るときもこれを聴く。 昨日は仕事場で聴きながら仕事をした。 第一楽章はアレグロでかなりアップテンポの曲である。それが心地良いということは、わたしの身体の波長もすこしアップテンポになっているのかもしれない。要するにちょっと前のめりっていうこと。 今日ブツブツ言いながら仕事をしていたら、スタッフのPさんに、 「yamaokaさん! すこしうるさいです。テンションが高すぎて疲れます」という突っ込みをされてしまった。 「あら、ごめんなさい、自分じゃテンションの高さなんてわかんないのよねえ」と応じたのだが、整体の片山洋次郎先生に「丹田に力がありますねえ」と整体をうけるたびに言われる女である。 すこし体調をくずしている人などには、この丹田の力に満ち満ちた女ははた迷惑な存在であるかもしれない。 と、すこしばかり反省をしたのだった。、、 わたしの理想は、少しクールダウンをして身体と心の力を抜いて、物事に向き合いたいというもの。 その方が人間としてもいっぱしのように思えるのだけれど、 どう、思います? 能村研三著『能村登四郎の百句』 が出来上がってくる。 待っていた方もおられるとおもうが、このシリーズは好評で既刊本を全部そろえておきたいというお客さまもおられるようで版元としてはとても嬉しい。 今月末には刊行になる「ふらんす堂通信167号」にも書いたのであるが、能村登四郎氏がなくなられてすでに20年が経ったのだ。そのことに驚いている。俳誌「沖」でも、能村登四郎に師事した俳人たちは少なくなりつつあることを思う。年月はおそろしいまでの速さで飛び去っていく。本著は能村登四郎の代表句が網羅してあり、初期の代表作のみならず、晩年の作品の魅力にもふれることができる一書である。 「人間をいかに描き出し得るか」という命題に腐心した能村登四郎の俳句との格闘が、ご子息の研三氏の眼をとおしてつぶさに語られている。傍らに常にいたものでなくては分からないことなどが明らかにされ、能村登四郎を知る上でも資料性に富んだ一冊となっていくことと思う。 数句紹介しておきたい。 ぬばたまの黒飴さはに良寛忌 『定本咀嚼音』昭和23年 ぬばたまは「射干玉」「野干玉」とも書く。ヒオウギの種子のことで、その色から黒にかかる枕詞である。良寛というと子供と遊ぶ素朴でやさしいイメージ、良寛は子供たちのためにいつも飴をたくさん袂にしのばせていたことだろう。ちなみに新潟の柾谷小路にあった商家、飴屋万蔵家の看板は良寛が揮毫している。この句の一連で昭和二十三年三月号の「馬醉木」では秋櫻子の激賞を受け初巻頭を得た句だが、波郷からは風雅を主調とした俳句は戦後新人の作る句ではないとの批判を受けた。「朝寒」の句と同様定本で復活した句である。 長靴に腰埋め野分の老教師 『定本咀嚼音』昭和24年 「良寛忌」の句とは反対に波郷が「野分の中を出勤する老教師の姿を力強い線で的確に描き出している」と激賞した句で、言葉をおさえながらも一つの人間像が描き出されている。「馬醉木」三十周年の特別作品に応募した二十五句中の一句で、波郷は「小主観で因果的叙述が多かったが、そのような手法はほとんど払拭されている」と述べている。教師俳句の道が開けて、登四郎はようやく自分の進むべき方向が定まったと確信した。この句は教え子の手によって菅田先生の墓碑に刻まれ、それが現在は市川学園内に移設されている。 身を裂いて咲く朝顔のありにけり 『寒九』昭和59年 この時期の登四郎は、ものの裏側までしっかりと凝視し、見通すような凄まじい詩性により、句に幅の広さと新しさを生み出していった。 朝顔の蕾は蔓が左巻きに螺旋を描くのに対して、右巻きに捻れているが、この捻れがほどけるようにして開花するのを、登四郎は「身を裂いて咲く」と表現した。人の血の滲むような生き方に心を惹かれた登四郎は、この句に自分自身の作句姿勢をも重ね合わせている。登四郎は「自分を常に主題にして俳句を詠んでいる私は、ある意味で身を裂いて咲く朝顔なのかも知れない。」と述べている。 もうすこし紹介したいところであるが、読む楽しみをうばっていはいけない。 巻末に付された「解説」より。 霜掃きし箒しばらくして倒る 月明に我立つ他は箒草 登四郎は俳句という伝統形式に、ある時は思い悩みつつ、新しさの追求心をいつも忘れず、そんな作句姿勢を自らの俳句作品と評論をもって実践した人であった。平成十三年五月二十四日、これまで明治男の気骨を見せながら、常に心を燃やしつづけてきたが、自らの余命というものを悟りつくしたようで、いのちの明かりを少しずつ、自ら吹き消すかのようにこの世から去っていった。 行く春を死でしめくくる人ひとり これはまったくミーハー的余談であるが、能村登四郎先生ご存命のころ、俳誌「沖」の出版記念会に伺うと「沖」は二次会と称して「カラオケ大会」が行われた。そこには登四郎先生も林翔先生もそろって参加され、歌をご披露されたのだった。 能村登四郎の持ち歌は、美川憲一の「さそり座の女」。一度だけ聴いたことがある。 美川憲一のようにすこしシナをつくってやわらなかなムードを醸し出して歌う登四郎先生は「さそり」ならぬ「白い美しい蛇」のようであった。 やや伏し目がちの流し目というのは、なんとも色っぽいものである。。。 あはっ、 お読み捨てくださいませ。。。 津川絵理子句集『夜の水平線』がすでに在庫僅少で、再版することにした。 一時品切れとなるかもしれないが、できるだけ早いかたちで再版ができあがる予定である。 ご希望の方は、予約も承っておりますので、是非にお申し込みくださいな。。。
by fragie777
| 2021-01-12 20:03
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||