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12月10日(木) 納めの金比羅 旧暦10月26日
枯れてゆく木々。 わたしは裸木となった冬木がいちばん好きかもしれない。 12月にはいりアドベント(待降節)となった。 多分わたしはクリスマスまではバッハの「マタイ受難曲」を聴いてゆくことになるだろう。 いくつかの「アヴェマリア」の曲とともに。 イエスの誕生の喜びの向こうにはそのままイエスの十字架の受難がすけてみえる。 第1コリント一章の使徒パウロの言葉をこのところあたまのなかで反芻している。 ギリシャ人の知恵でもなく、ユダヤ人のしるしでもなく、十字架の言葉はそれを信じないものには「愚か」であるという「神の愚かさ」についてだ。 この箇所のパウロの論理の展開は、横っ面を張ったおされる(この言い方でいいのかしら)ような凄さだ。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装帯あり 188頁 二句組 俳人・朝吹英和(あさぶき・ひでかず)氏の第4句集となる。朝吹氏は、ふらんす堂より第1句集『青きサーベル』(2003)、第2句集『光の槍』(2006)、第3句集『夏の鏃』(2010)の三冊の句集を上梓されている。この度の句集は4冊目となるものである。跋文を俳人の富田正吉氏、和久井幹雄氏。本文を2葉の挿画で飾るのは画家の勝間田弘幸氏。本句集もまた、前句集同様朝吹英和氏の音楽・美術への造詣のみならず氏の思考、嗜好などすべてを総動員したわたしたちをふくめた森羅万象への挨拶であり、氏の美意識に貫かれた俳句集である。 跋文を寄せられたお一人、和久井幹雄氏は、本句集を「朝吹交響曲『第四楽章』」と題して、つまり第1句集が第1楽章、第2,第3がそれぞれの楽章であると語り、宮沢賢治の「注文の多い料理店」から説き起こし、それぞれの句集をとりあげながら本句集にいたるまでを解説する。 ほんの少しであるが抜粋する。 作者は、第一楽章『青きサーベル』のタクトを握った瞬間から、四楽章からなる壮大な交響曲を完成させるという勁い意思に貫かれており、我々はそのことを今始めて明かされた。 この作者の強靱な精神力には正直驚かざるを得ない。(略)「朝吹交響曲」を完成させた作者は何処へ向かうのであろうか。 芭蕉が曽良と「奥の細道」に旅立ったように、朝吹英和は円環的な時間の中で、モーツァルト「ジュピター」の曲に乗って、ジョバンニと新たな「時空のクオリア」を探しに旅立つのであろう。 富田正吉氏は、「いつまでも音と言葉のロマネスク」と題し、「驚かされることは興の振幅の広さであり、知見の豊かさである」と語る。少し抜粋する。 この文章は朝吹英和句集『光陰の矢』の魅力を伝えることをめざしている。自然諷詠、自分自身、身体・酒・食、戦争と平和、宗教、死、神話、文学、音楽、彫刻・絵画、動物、植物、天体、サッカー、ものに区分してコメントした。作者の興が広すぎたのでこのような結果になってしまった。読み手は百科辞典を繙くような面白さを味わったのではないか。朝吹英和は好きなものの中にある本質を俳句の中で全身全霊で探究し、その知見を存分に披瀝している。 本句集をいろどるものに、画家・勝間田弘幸氏の装画がある。 「秋」と題され 長考の果てなる一手飛蝗跳ぶ の句が寄せられている。 「緋色の・蝶々」と題され、 一面のロ短調から蝶生る 暮れなづむ緋色の刻や蝶凍つる の句が寄せられている。どちらの装画についても、作者の勝間田氏の言葉が寄せられているのだが、興味のある方は本書にふれて是非に読んでいただきたい。 ひきがへる昭和の貌で畏まる 遠縁の少女の瞳青葡萄遠き日の砂の記憶やソーダ水 銀漢や結晶固き石の華 投げ竿の空切る音や冬に入る 強情な女の残す櫻餅 これは担当のPさんが好きな句としてあげたものである。 わたしの好き句とだぶるのもおもしろい。 遠き日の砂の記憶やソーダ水 夏の景である。「砂の記憶」とは海岸の砂浜のことだろうか。それを「砂の記憶」と表現し、具体的に言わないところが面白いとおもった。海が見え砂浜が見え、遊びたわむれる幼き日、そういう景もみえてくるが、「砂」という物質がもつざらざらとした灰色の塊のとしての砂も見えてくる、それはもっと作者の肉感に触れてくるものであり、ある違和のような感触も思わせる。そのざらつく感触。目の前おかれた真青な「ソーダ水」が作者の遠き日を呼び起こし、砂にまつわるさまざまな記憶を呼び起こしたのだ。物質の感触が残る一句だ。 強情な女の残す櫻餅 ドキッとしてしまった。この句を読んで。ひょっとしてわたしのこと?って。ただ、わたしは朝吹さんと食事をご一緒したことはあっても桜餅をたべたことがないから、わたしのことではないと思う。でも、小さい時にわたしは母に「強情な子だ」って言われたことが何回かあるから、「強情な女」ってあながち他人とは思えないのよね。朝吹さんはこの女性をどう見ておられるのだろうか。やや非難めいた眼差しを感じる。「強情な女」という言い方はけっして褒め言葉ではない。「意地っ張り」という意味もあって人の意見など聞かず自分をおしとおすそんな女性、言いたいことを言って、しかも美味しい桜餅を残している。残された桜餅が可愛そうだ。女が去ったあと、桜餅だけがぽつねんとお皿にある。それを見ている作者。せめて桜餅ぐらいは食べろよ。と思っているのかもしれない。強情、その上に情趣もない。やや怒りがあるかも。この句「草餅」や「柏餅」だったらどうだろう。ああ、やはり「桜餅」の可憐さが「女の強情」を引き立てているとみた。 桐箱に納めし写真銀杏散る わたしはこの句が印象的だった。いまは写真も紙焼きで残すことは少なくなりほとんどをデータとして保存する。だからこの写真はきっと少し前の古い写真である。それを桐の箱に収めるという。いったいどれだけ大切なものなんだろう。アルバムに収拾するのではないのよ、桐の箱よ。この行為をしている人は決して若くはない、老人あるいは老女といってもいい、端正なたたずまいのお屋敷に暮らしていて、うやうやしく桐の箱のなかに写真を収めていっている。和服姿などがぴったしの場面だ。広い和室に床の間の横の小さな戸棚から桐の箱をとりだしてきたのだ。思い出を心にたたみ込むようにして桐の箱に納めていく。すべてが静かでひっそりとしている。広いお屋敷の一角にはおおきな銀杏の木があって、その部屋からよく見える。金色となった銀杏紅葉が散り続けている。一読後、もの悲しい気持ちになるのはなぜだろう。きっともうこういう風景は失われていくものだからだろう。わたしのなかでも既視感をおぼえる風景だ。ああ、昭和。。。。 ほかに、 クリムトの金の煌めき卯浪立つ 長考の果てなる一手飛蝗跳ぶ 利休忌の真空管の火照りかな 潮騒や蟬時雨のシャワーを存分に浴びた遠き日の葉山海岸、学生時代に北海道西岸沖の天売島で遭遇した荘厳な落日、家族旅行で訪れた新潟県須原での夏銀河、友人と出掛けた南西諸島西表島に架かった雄大な冬の虹、正に様々なことを思い出す毎年の桜……緩やかに巡る四季の循環律に恵まれた我が国で生まれた俳句は、季語を中核として外在する世界と内なるものとが響き合う時空に誕生する。 (略) 生々流転する時空のクオリアを言霊の力によって結晶させ、現実から異次元の詩的現実の時空へクオンタム・リープ(非連続的飛躍)さながらに飛翔することが私の目指す俳句の姿である。これからも森羅万象の発信する波動(メッセージ)を受容して精進を重ねて行きたい。 「あとがき」の一部を紹介した。 本句集の装幀は、既刊句集3冊をてがけた君嶋真理子さん。 今回も君嶋さんご指名である。 「いやあ、ふらんす堂の本みたいではないですね」といいながら、印刷会社のKさんが出来上がった本をもってきた。 「ああ、ふらんす堂の本としては派手よね。でも君嶋さんだから、やはり品がいいのよね」とわたし。 「光陰の矢」というタイトルにふさわしい、動きのある装幀となった。 タイトルは銀の箔押し。 カバーが派手な分、表紙は渋く。 扉。 光陰の矢に刺し抜かる晩夏かな 句集の最後におかれた一句。そして句集名ともなった一句である。 朝吹氏が第1句集から第4句集にいたるまで一貫して好きな「光」と「夏」が詠まれている。 本句集について、俳人の栗林浩氏が、その「ブログ」で懇切なる書評をされている。 以下に紹介しておきたい。是非にアクセスを。 以下は、今回の句集を上梓された朝吹英和氏からいただいた感想である。 自然から受ける感興は勿論のこと、音楽や美術など芸術から受ける感動に触発されて授かる句も多い。本句集では友人である勝間田弘幸画伯の絵画「秋」並びに「緋色の刻・蝶々」からイメージして誕生した句を収録する事が出来た。更に「緋色の刻・蝶々」創作の源泉は拙句「一面のロ短調から蝶生る」であったと勝間田さんからお聞きして感無量であった。個展でその絵画を鑑賞して「暮れなづむ緋色の刻や蝶凍つる」を授かった。俳句から絵画が生まれ、更にその絵画から俳句が生まれるという絵画と俳句の螺旋的な相互交流を実現出来た喜びは大きなものがある。 2018年の5月に来社された朝吹英和氏。 今回はご来社ならず、お目にかかれないのが残念である。
by fragie777
| 2020-12-10 20:31
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Comments(3)
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