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12月2日(水) 橘始黄(たちばなはじめてきばむ) 旧暦10月18日
メタセコイアの紅葉。 二週間ほど前だ。 すでにここもいまは激しい落葉しぐれとなっているかもしれない。 朝の天気予報で、「今日は雨がふりはじめ、寒くなります。冬のコートで出掛けましょう」と言っていたので、わたしはやや丈の短いカジュアルな冬のコートをとりだしてそれを羽織った。ワイン色のそれはかさばらずすっきりと着られるので、重宝しているものだ。 襟のところにクリーニング済みの紙切れがついているのでそれも外した。 冬のコート、って思っただけでちょっとあたたかくなる気分が嬉しい。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装帯あり 216頁 二句組 第1句集である。著者の若林杜紀子(わかばやし・ときこ)さんは、昭和15年(1940)東京足立区生まれ、現在も足立区在住。平成13年(2001)俳誌「百鳥」(大串章主宰)入会。2017年(2005)「百鳥賞」受賞。平成25年(2013)「鳳声賞」受賞。「百鳥」同人。俳人協会評議員。序句を大串章主宰、跋文を太田土男氏が寄せている。 青嶺あり青嶺をめざす道があり 大串 章 太田土男氏の跋は、 自画像の鋭き眼差しの涼しさよ の一句をまず紹介し、この著者の句集に描かれた多彩な自画像を丁寧に紹介していく。山登りをし、絵画への造形もふかく、作句のみならず、評論もよくし、俳句においても評論においても「百鳥」の賞を受賞されている。何事にも果敢に挑戦していく若林杜紀子さんの俳人像が浮かびあがってくる。 その跋文の一部を抜粋して紹介したい。 俳句の出発は遅かったが、持ち前の熱心さで、瞬く間に、頭角を現す。平成一七年一月、百鳥賞を受賞し、同年、同人に列する。冒頭に掲げた「自画像の鋭き眼差しの涼しさよ」を含むこの時の一連の一部を上げる。 伊能図に母の村の名あたたかし 噴水に真白き芯のありにけり 百年の倉を満たせり今年米 露けしや埴輪に赤子負ふをみな 短日や画鋲かたまる掲示板 寒牡丹見るとき声をひそめけり などである。これらの句から分かることは、凝視の強さ、そして季語の働きの確かさである。噴水の「真白き芯」に鋭さ、今年米を満たすに「百年の倉」の豊かさ。「短日や」は射貫くように凝視が強い。寒牡丹の感動を「声をひそめ」と核心をつく。一方、「あたたかし」、「露けし」と難しい季語を生き生きと使って、一句を立ち上がらせる表現力に感服する。 実は、杜紀子さんは、評論も書く。百鳥二〇周年記念コンクール評論の部では「写生を考える―高野素十を通して」で最優秀賞を、同二五周年では「季語を考える―石田波郷の鵙」で優秀賞を受賞している。つまり、杜紀子さんは、俳句を作りながら、一貫して、季語と写生といった基本について考え続け、それをみずからの俳句を通しても実践し続けてきたのである。 子の家の灯を見て過ぎぬ十三夜 剪定の切口なでて終はりけり群衆の割れて神輿を通しけり 窯訪ふや竹の子掘つて行かれよと 古書店に夕立の匂ひ残りをり 八月やシャガールの馬空を飛び 春帽子木彫りの小鳥とまらせて 散りしける花びらに靴脱ぎにけり 夏帽子鯨に会へる海へ発つ みづうみに小舟が二つ春立てり 一湾の立ち上がりくる野分かな 担当の文己さんの好きな句である。 古書店に夕立の匂ひ残りをり 夕立の匂いって、いったいどんな匂いだろう。夕立中に濡れて立っていたってその匂いを嗅ぐことなんできゃしない。ねえ、夕立の匂いってどんな匂い、ちょっと説明してよっていわれて明確にその匂いをいうことなんて言えないのがふつう。ここでは、夕立あとの古書店に立ち寄った。夕立にあって身体も濡れているかもしれない。なまあたたかな店内に入るとふっと古書の匂いが鼻をつく。その匂いがいつもの古書の乾いた匂いとすこし違うのだ。湿気をふくんだ古書店内から水の匂いをふくんだやや重たい匂いが鼻をつく。それを著者は「夕立の匂ひ」と捉えたのだ。かすかな夕立の匂いをまとひながら著者は満たされた思いでゆっくりと古書さがしをするのである。古書店を詠んだものに〈古書店に昭和の絵本あたたかし〉という一句もあってこの句も好き。 八十八夜旅にあるごと文を書く これはわたしの好きな句である。「八十八夜」が季語で、立春から数えて八十八日目にあたる日で、霜がおりたりして、農業、漁業を生業とする人たちにとってや要注意の日なのだそう。でも字面もよくて、唄にも歌われているように、こういう季語があるってちょっとワクワクする。都市生活者にはあまりご縁がない季語かもしれないが、そしてわたしもその一人であるが、こういう日本語があって季語があるってことを胸におさめておきたいって思う。「ああ、今日は八十八夜ね」なんて日常生活のなかで使ったりするとなにかもう一つ生活に奥行きが出てくる、そんな気がしません。で、小さな子に「なんていう意味?」なんて尋ねられたら、「それはね……」と言って説明してあげる。こういうちょっとしたヤリトリを大切に生きていきたいわよね。若林杜紀子さんはさらに素敵である。「旅にあるごと文を書く」のである。ただの手紙ではなくて「旅にあるごと」が最高である。それは空想の翼を広げなくてはできないもの。そして文を書く相手を心に思いながらである。とびきりの八十八夜の過ごし方である。 非常階段どくだみへ降りゆけり この句には笑った。だけど「どくだみ」ってまさにこういうところに群生している。省略をきかせた叙法がどくだみの凄さを語っている。「どくだみ」は好きな花だから「十薬」って呼んであげたいけれど、ここは「どくだみ」でなくてはだめ、降りていく人間のちょっとひるんだような気配がつたわってくる。どこに足をおろしていいかわからないくらいきっとどくだみだらけだったのだろう。裏手の日のささない湿っぽい場所、非常階段も錆びていてその錆の匂いまで鼻につきそうな、情景がすぐに浮かんでくる一句だ。 草色のやがて空色シャボン玉 これは巧い一句だと思った。視線が低いところから高いところへとシャボン玉が上昇していくその様子を色だけで表現したのだ。「草色」がうまい。シャボン玉の向こうに草むらがみえ、そしてやがてあかるい空がみえてくる。動詞をつかわず端的に「シャボン玉」を詠んだ。俳句ならではの一句だと思う。 この句集は私の第一句集です。平成十三年百鳥入会以来、令和元年十二月までの三五一句を収めました。 序句に大串章主宰の「青嶺あり青嶺をめざす道があり」を頂きました。 定年退職し、長くなるであろう今後の日々を如何に過ごすかを考えていたとき、たまたま本屋で大串主宰の『自由に楽しむ俳句』を読み、俳句を暮しのよすがにしようと決めました。以来、俳句は私にとって青嶺となりました。登山に夢中になっていた若い頃の青嶺は生気に溢れ、そこに入れば身体のすみずみまで蘇生されるような気がしました。しかし俳句という青嶺は高くて奥深そうで、どこか茫洋としている。でも分け入りたい。そう思って歩き始めたのでした。 本集は、第一章は同人になるまでの四年間の句を四季別にまとめ、第二章以降は作句順に並べました。 句稿を並べつつ、なんと遅々とした歩みであることかと、気恥ずかしい思いで一杯でした。また一方、この間は、新型コロナウイルスのために長い間家居を余儀なくされ、改めて俳句があってよかった、俳句を通して多くの方々と繫がりがあってよかった、との思いを深くいたしました。 これを機に心を新たに俳句に向き合っていきたいと思います。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 本句集の装幀は君嶋真理子さん。 「みづうみ」という普遍的なタイトルをどう装幀するか、 君嶋さんらしい瀟洒なそして固有な一冊に仕上げた。 カバーをとった表紙。 扉。 日常を大切に生き、自然と親しみ、旅の先々で土地の人々と出会う。こうした一切を自分を高め、自分に出会うことと観じて俳句に書き留める。それはまさしく自画像を描くことである。日々新しい自画像は描き続けられてゆく。(跋・太田土男) 担当の横尾さんによると、 「装幀でかなり迷われていらっしゃいましたが、思い切って明るいブルーにしてよかったとのことでした。」 若林杜紀子さんからは、 いろいろお世話様になりました。 装丁が爽やかでとても良いと多くの方に誉められました。 おかげ様です。 というお言葉をいただいている。 涼しさや余白の多き父の文 この一句、わたしは羨ましい。わたしは父からは手紙をもらったことがない。母からは「叱り」の手紙をもらったことはあるが。地球上には「父親から手紙をもらった人」と「そうでない人」の割合はどっちが多いのだろうか。いまは、メールやラインで父親との距離が近くなったのであえて「手紙」を書く父親はすくなくなりつつあるが、手紙を書く父親なんていいなあ。べたつき感がなく、その距離がいい、しかも余白が多かったりすると、まさに涼やかな書簡となる。 お父さん、わたしも手紙が欲しかった。。。。
by fragie777
| 2020-12-02 19:44
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