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11月24日(火) 十日夜 旧暦10月10日
冬の水に映った白鷺の影。 影であってもたしかに白鷺はいた。 今日は新刊を紹介したい。 2018年11月に刊行された詩集『蒼い陰画』の著者 森雄治さんの作品集である。 と言っても森雄治さんはすでに亡くなっている。 詩集『蒼い陰画』は森雄治さんが17歳から20歳までに書いた詩をまとめたもので、刊行するや詩壇にある衝撃をあたえたほどの力量のある完成度の高い詩集であった。 画家である兄の森信夫さんによって編まれたもので、この度の作品集『花束』も森信夫さんが、残されたノートなどの資料の丹念な読みをとおして一冊にまとめられたものである。 四六判ペーパーバックスタイル帯あり 158頁 装丁・君嶋真理子 装画・本文挿画・森信夫 本作品集は、小説、散文、映画論、批評、短歌、俳句など文芸のさまざまなジャンルにわたって書かれたものである。 森信夫さんの「あとがき」を紹介したい。 本書には、著者・森雄治が一九歳から二八歳にかけて書いた短編・掌編小説、散文、短歌、俳句が集められています。著者は短歌、俳句を除くと、どの表現形式も十代前半から試みていましたが(詩についてはもっと早く、幼少期から書き始めていました)、本書には、長編小説を除く、右記の小品を収録しました。 タイトルの「花束」は、最初におかれた短編小説のタイトルでもあるが、本作品集に収録された作品一つ一つが花束のように一つに集められて読者に差し出された作品の花束でもある、と思う。 作品はどこか夢想のベールをまとっていて、読者を暗鬱な不穏な世界へといざなう。 帯の背には「夢の魅惑と危険」とある。 帯にも使われた「花束」の冒頭の一節を紹介したい。 強い風が終日やむことなく吹きまくり、濃い霧がおびただしくあたり一面を流れていって、女はじっと立ちつくしていた崖の上から霧の下に見え隠れするうねり渦巻く暗い海面にぼんやりと眼を注いでいた。激しく吹き募る風に髪を嬲られて眼を細め、数本の赤い花を両手でつつみこむようにして持ったまま最前からそこに立っていたその女は、それまでそんな遙か下の方、荒々しく波立つ海などには眼もくれなかったのに、たった今はじめて視線を霧の底でうねる海へと落したのだった。手にしていた花束を一層力強く胸に抱きかかえるようにして。 詩人の小笠原鳥類さんが、本書に対してさっそくに感想をくださった。 「表紙と扉に描かれた、花束のようでもある、海から来た野菜のようでもある、謎の、はっきりしない物体が魅力的です。帯のような布のようなものが描かれた挿絵、あるいは虫が描かれた挿絵、ものたちの輪郭があいまいで、不穏な夜の超能力で描かれた絵だと思いました。帯に「夢の魅惑と危険」と刺激的に書いてあって、確かに、この世にあるものとこの世にないものとの区別がわからなくなるような短編/断片が多く収録されていました。比較的輪郭のはっきりした「花束」から、輪郭がない場でいろいろな人の声が響く「眠りの街」へと、ゆっくりと進む歩みを追う書物になっているのだと想念しました。小説・詩・エッセイ・評論の区別もなくなっていくような「作品集」で、わずか二行の「不可知」に驚きました。誰も見ていない森で石像(木像?)が動きます。俳句「仏壇の暗闇に置く電話鳴る」。いにしえの黒電話が金色の音を出す闇でした。」 わずか二行の「不可知」に驚きました。とあるその二行を紹介したい。 不可知 包帯を巻いたままひとり立ちあがろうと決意した 鬱蒼とした森のなかのモオゼ像 編者の森雄治さんから、本作品集を編むにあたって担当の文己さんに語られたものを紹介しておきたい。 「森雄治作品集 花束」は、とりわけ、“夢”を主題にしたものを集めてみました。著者は、二十歳以降は小説家になると言っていたので、その遺志に沿う作品集をと考えましたが、この機会に、少ないながら書いていた短歌や俳句を併せた小品集の形にしました。 断片的な作品については、生前交わした会話などから、いろいろな作品に関連するものがあると思い当たることがあるものを選びました。例えば、(天の透きとおった高みから)は、小学生のときに学校の遠足かなにかで訪れた或る場所が思い浮かぶのですが、その場所の自然の美しさによほど感銘を受けたらしく、学校での作文を含めて繰り返し描写していると思われ、その印象を他の作品でも取り入れていると思います。 雄治は文学以外では、絵を見ることも好きでしたが(いろいろな画家の絵を幅広く見ていましたが、とりわけシュルレアリスムやベルギー象徴派などの絵が好きだったようです)、もっとも熱中していたのは音楽(とりわけジャズ。一緒に住んでいたときは、隣の部屋からいつもジャズが鳴り響いていました)と映画でしたので、その雰囲気が少しは伝わるように、それぞれに関連する散文を載せました。 担当の文己さんは、この本を担当した感想を森雄治さんにこんな風におくっている。 校了に向けじっくり作品集を拝読していましたが、夢というか非現実のような、通底した薄気味悪さがあり独特の世界観にしばらく浸ってしまいました…。 この後事務仕事に戻るのが難しそうです。(笑) 好きな掌編は「旗」「公園」「眠りの街」俳句でも普段見慣れない無季俳句が多く、斬新な気持ちで拝読しました。 去りゆきし日々に独語の蝶飛べり 稲妻の秘密知りたる子の訃報 の句が好きでした。 俳句や短歌も巻末に収録されているのである。 すると、森信夫さんからは、 確かに独特の薄気味悪さ、不気味さが作品全体にあり、平凡な日常のなにげなさにそれらが潜んでいる、という世界観がこの本のために選んだ作品に通底していると思います。(この後事務仕事に戻るのは難しそうです、という横尾さんの感想を著者が聞くとニヤリと微笑して喜ぶと思います。) というお返事。 わたしはこの作品集のなかで、とりわけ心引かれた(面白いと思った)のが、「異言=音楽=言語」と題された、音楽についてのもの。全文を引用したい。 異言=音楽=言語 わたくしのそとにあつて わたくしをころさうとするもの 一九八三年一月私は一本のギター、ラジカセ、カセットテープで、〈ミュー ジシャン〉デビューを、秘かに果した。といっても、レコーディングデビュー して公開したわけではなく、プライベートテープを一九八六年のハレー彗星接 近時まで、カセットに百本近く録音する。シンセサイザーもなく、ギター以外 に全く楽器がなくまたその金もないために、私が試みたのはアコースティック ギターのシンセサイザー化である。つまり、ギターをふつうの奏法ではなく全 く異なったやりかたで、楽器以前の〈物質〉とみなし体化(=表出)するので ある。私がとったのは、楽譜を全く用いない、全くの純即興的な楽器との衝突 によるアクションである。事前に何のメロディーによるアイデアもない。ただ、 大体音を出すのに何を用いるかを決めるだけで、あとはカセットをまわしっぱ なしにして、気の済むまでやるのである。試みにまずこの〈ファーストレコー ディング〉では、シンプルに爪弾く事で始め、あと鉛筆で弦を擦ったり、缶を こすったり、鉛筆をはさんだり、カセットテープのケースでこすったり…… 等々と物によって種々さまざまな摩訶不思議な音を次々案出していく。これす なわちサンプリング機能とよく似ている。いろんな音を蒐集して自在に楽音化 していく過程(プロセス)は、ひとえに電子楽器にのみとどまらない。ふつうのギターと、 ガラクタがあれば、ギターというそれ自体案出化された音のアイデアに他なら ない〈物質〉にこめられた偶発的な音の霊性を自在に引き出す事が可能となる。 なぜこれを誰もやらないのだろう。 箱をこする事でくねくねうねうねとした触覚を生み出し得た曲には、そのよ うなイメージから「エクトプラズム」という題をつけた。また、別の曲には、 音という前意識的な素材で自己空間的な表現が可能な事からハイデッガーの哲 学用語である「開存」という題をつけた。その他にもさまざまな題(記号)を 付し、□(ママ)十時間分はやった。中には駄作もあるものの、それなりにそれぞれ貴 重な音のドキュメントといえる。 私にはどうしても不可能なのは、他者との共演という事だ。とりわけ音楽的 に熟練したプロのミュージシャンとは不可能に思われる。なぜならあちらは音 楽を(どうしても)やろうとしており、こちらは単にそういうコードの全く無 縁な白痴的地点で音を鳴らしているわけで、水に油というわけで、こちらがイ ンプロビゼイションするとむこうがショートして裂ける光景が目に見える。む しろ全くの素人に楽器を与えて随意に思いつくまま楽音を鳴らしてもらう方が 理想的なのだ。そうしてこれからも永遠に私は他者との共演という事は考えな いだろう。本質的に政治的な個人的欲望の形態である〈音を美的に洗練された ものとして表出し売ること〉という行為は、本質的に非- 私的な所有物である 私のこのエクリチュールの行為に反する事であり、音の神に対する冒瀆なので ある。売るつもりもなく、単に趣味的な実験としてためられた私のカセットテ ープは、けだし誰もいない惑星で、誰も聞く事なく起り=消える風のようなも のとしてあるのだ。すなわち誰も喜ばず─誰も知らない─非音楽的〈音の 出来事〉の群れである。 (1992) 音楽論 したがって、もし私(森雄治)の音表現において、批判ないし欠点 の指摘がなされなければならないなら、それは決して今いったような技術とい う意味づけられた音体系による裁断からではなく、あくまでもいかにそのよう な真の混沌の生成としての運動= 演奏が濃密に、能う限り十全に機能しうる かという点においてなのである。ここではかくかくしかじかの判断基準によっ て〝音〟を管理・制御し、音のよしあし、技術の巧拙を色分けする〝主観〟は、 予め無効を宣せられている。音を意味づけえぬもの、言語→物質として扱うこ と。それが表現を得て一定の恣意的な流れとしてあふれる時、真にグロテスク な音空間、あらゆる西欧的ロゴスの支配による構造化された音から自由な─ より正しくは無縁な─物質と物質が宇宙的規模に拡大されることにより帯び る陰翳にみちて響きあう名状しがたい混沌を招きよせるのである。 (ca. 1983) 「そうしてこれからも永遠に私は他者との共演という事は考えないだろう。本質的に政治的な個人的欲望の形態である〈音を美的に洗練されたものとして表出し売ること〉という行為は、本質的に非- 私的な所有物である私のこのエクリチュールの行為に反する事であり、音の神に対する冒瀆なのである。」 この一節に象徴されるようにここには、森雄治という表現者の音楽のみにかかわらずあらゆる表現行為への姿勢があるように私には思えるのだ。つまり、森雄治の世界への向きあい方、社会や人間との関わり方と言ってもいいかもしれない。 28歳のとき書かれたものである。あとのものは20歳のときに。 読んでいると胸が苦しくなってくるのはどうしてだろう。 傑出した才能をもっていた森雄治というひとりの失われた若者を思うからだろうか。 森信夫さんの「あとがき」には、この作品集をいかにしてまとめたかの報告が記されている。詩集『蒼い陰画』と同じように大学ノートにびっしりと書き込まれていたものを、丹念に読み解いていき、編集したものである。 一部を紹介したい。 無題の作品は、一行目を( )で括って題名にしました。「花束」の後半、花が枯れずにもつ日数を尋ねる箇所の数字部分は一度消されていて判読できないため、痕跡などから推定した数字を入れました。異稿がある「ある壁画」については、初稿も、異稿も多くの書き込みのため判読困難な箇所が多くいずれも未定稿に思えるため、初稿をベースとしつつも、初稿で判読困難な箇所や題名など、適宜に異稿も採り入れました(初稿では題名は「移住」となっています)。(略) 著者自身が〝作品〟と見做していなかったかもしれない、ノートの様々な箇所に書き記された断片的な文章も含めて発表することを著者は望んでいなかったかもしれないという考えが去来する瞬間もありましたが、他の作品の理解に資する内容が含まれていると考え、このような形での出版の運びとなりました。 この作品集の素敵なところは、お兄さまの信夫さんの作品によって飾られていることである。 表紙に一葉、本文に四葉。 どれも「夢」の匂いをさせている。 四葉のうちの一葉。 挿画を描くにあたって、不安定な夢の雰囲気を出すために、モノタイプなどの版画によく似た手法を取り入れて、ねじれた、あいまいな空間、影や残像、隠し絵的なイメージを潜ませました。 と森信夫さん。 この作品集のために、描かれたものである。 巻末の短歌から二首のみ紹介をする。 車窓より河辺の葦にゆらめかんわが哀しみは釣人の背に 真昼日の巨大な蝶の翅陰(はねかげ)に隠されしわが古きアルバムと白骨(ほね) 『蒼い陰画』に引き続き今回も美しい本をありがとうございました。 友人の一人からは、「ふらんす堂らしい、美しい装丁の本に、心ときめいております。」とメールをもらいました。 と森信夫さん。 君嶋真理子さんが、今回も美しい本に仕上げてくれた。 担当の文己さんもわたしも決してあうことのない森雄治というひとりの表現者を思う。 そして、その向こうにはその弟のために二冊の本を生み出した兄の森信夫さんがいる。 仏壇の暗闇に置く電話鳴る 小笠原鳥類さんもあげておられたが、わたしもこの一句が好きだ。 無季であり、シュールな風景であるが、リアリティがある。 受話器をとれば、雄治さんの声が聞こえてくるかもしれない。。。 冬の薔薇
by fragie777
| 2020-11-24 20:13
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