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11月17日(火) 金戔香(きんせんかさく) 旧暦10月3日
すこし前に出会った野良猫。 白と黒とがいい感じでアンバイされている。 ふらんす堂のお隣のお隣にあったなかや手芸店が閉店となってそのビルが解体された。 今日はそこにでっかいショベルカーが入った。 「あれー、ショベルカーがいる。いった何時来たんだろう」ってスタッフが叫んだ。 ここひと月ほどは、その解体工事がたてる音でちょっと悩ましかったのである。 ドッスーン!!という音ととも身体が突き上げられるようになって、おもわず 「ひゃあー」とわたしもスタッフも悲鳴をあげたり、あるスタッフはその音で気持ちが悪くなったりと。 ただ、このことにおいてはわたしが一番鈍感だったかもしれない。 スタッフのことを考えると悩ましかったが、あんがいヘイチャラでわたしは仕事をしていた。 もちろん最初にご挨拶とお詫びがあったので、覚悟はしていたけれどやはりビルの解体というのは大きなエネルギーが動くものであると思った。 建築より解体の方が、おおきな力が動く。 うずたかくつみあげられた瓦礫の山。 手前はレストランナカムラの屋根。 かつてはここで野良猫たちが昼寝をしていたものであるが、いまはその姿はどこにもない。 お隣のレストランナカムラの方がわたしたちよりもっと悩ましかっただろうと思う。 これから建築段階に入っていくのだおろう。 どんなビルが建つのか、3階立てであるというがちょっと楽しみではある。 新刊紹介をしたい。 A5判ペーパーバックスタイル帯有り 72頁 3句組 第1句集シリーズⅡ 著者の児玉裕子(こだま・ひろこ)さんは、昭和31年(1956)愛知県豊田市生まれ、現在も愛知県豊田市在住。平成10年(1998)「ころも連句会」入会、平成12年(2000)俳句をはじめ、平成25年(2013)「家」入会、平成26年(2014)「円座」入会。「家」「円座」同人。俳人協会会員、日本連句協会会員。「第1句集シリーズⅡ」に参加されての刊行。序文を「家」主宰の加藤かな文氏が寄せている。 一読して、とても好感度が高い句集であるとわたしは思った。 気取りがなく、かまえておらず、日常の一場面をさらりと詠んでいるのだが、人生のほろ苦い味わいもあって、飽きさせない句集だ。 加藤かな文主宰の序文はこんな風にはじまる。 春立つやあれもこれもと書く手紙 児玉裕子こさんは高校の国語教師だった。また、出会った頃に、わが師・児玉輝代(1926~2011)と同姓で同じ愛知県豊田市在住なので親戚かと尋ねたら、そうじゃないけど全く関係がないわけではない、と言った。彼女について知っている事柄はそれぐらい。でも彼女のことをとてもよく知っている気がする。それはきっと彼女の俳句のせいだ。開巻劈頭の句に〈あれもこれもと書く手紙〉とある。手紙ではなく俳句なのだと思う。飾ることなく気取ることなく毎日の暮らしを詠む。ふだんの口ぶりや人柄が反映され、彼女の俳句はどれもこれも彼女自身によく似ている。 この序文に書かれているように、句集を読みおわったあとにわたしは児玉裕子さんをとてもよく知っているような気がしてきたのだった。会えばすぐにさっぱりと会話ができるような、これは児玉裕子さんの俳句の魅力であるのだが、それ以上に俳句という小さな定型詩の力によるものだとも思った。嫌味なく押しつけがましくなく、その人の人生が見えてくる。俳句という器が引き受ける大きさだ。 新郎と腕組む母の小春かな 古雛やひたすら母を生きし人 こんなにも小さき母なり月今宵 冬の蝶ひとりで暮らす母の意地 〈母〉を詠む。姑さんなのか、実のお母さんなのか。あるいはご自身なのか。〈ひとりで暮らす〉のは実のお母さんだと思うが。いや、そんなのはどうでもいい。どれも具体的な〈母〉を描きながら、あらゆる人々にとっての〈母〉を感じさせるから。 窯出しのピッツァぱりぱり山笑ふ 螢烏賊入れて昼餉のスパゲッティ カフェ・オ・レにちよつとシナモン春浅し 駅前のあんかけ饂飩食べて冬 人参の葉色あざやかオムライス 食べ物や飲み物の句が多い。ずっとそう感じてきたのだが、句集を読んでも多い。飲食とは生きている証。そこだけはどんなときも明るくなる。児玉さんは、私たちを笑顔にするため、意識的にそうしているのだと思う。 序文を抜粋して紹介したが、「父」の句も多い。本句集の終わりの方には介護をされたお父さまが亡くなっている。 鰯雲大股になる散歩かな 車椅子寄せて金木犀の庭新じゃがの土も土産と喜ばれ 福袋重い鍋より軽い鍋 担当のPさんの好きな句を紹介した。 新じゃがの土も土産と喜ばれ 土のついたままの新じゃがを人にあげたのだ。畑でとれたものをそのままお土産として持っていったのだろう。新じゃがを手にとるとしめった土の感触と土の匂いがした、貰った人は、そのことを喜んだのだ。店先で買うとこうはいかない。土はきれいに洗いおとされているか、乾いたまま土の残骸として残っているかだ。都会暮らしをしていると土とは無縁になりつつある。多くの野菜は土から穫れるが、わたしたちの手にとどく時には、野菜たちはさっぱりと水で洗われてすまし顔している。泥土なんて関係ないわっていう具合に。ああ、でも野菜たちよ、あなたたちは豊かな土壌に抱かれて育まれ成長したのだ。ってきれいに店頭にならべれたた野菜たちに言いたい、けど、まあ、それはともかく、この一句、土のついたじゃがいもを介していい感じの人間関係も見えてくる。児玉裕子さんという方は、こんな風にざっくばらんに人との交友をされるんだろうなあって思った。〈ごつき手のほれ持つてけと大根引く〉これなどもいいよなあ。 浪人の勇んでつくる雪達磨 笑ってしまった一句。浪人はきっと大学受験をめざしている男子かな。女子でもいいのだけど、わたしはすぐに男子を思いうかべた。綿入れ半纏を羽織ってさっきまで受験勉強をしていたのだけど、外で子どもたちの声がする、ちょっと覗いて見ると、なにやら雪だるまをつくっているらしい、見ているとまどろっこしい、ひとつ、出て行って手助けをしてやるか、とのそりと炬燵から抜け出て行ったところ、お兄ちゃんが来たので大歓迎である。よし、任せておけとばかりに、気合いをいれて雪だるまづくりにのぞんだのだ。彼にとっては童心にかえってのいい気分転換。それを見ている大人は、あらまあ、あんなに頑張っちゃってと、いささかあきれ顔。 囀りや見舞ひの人とハイタッチ この句も情景がいきいきと見えてくる。この作者のもっている元気な気が、あたりを明るくするのだ。必要以上の感情移入をせずに、さっぱりとその一瞬を俳句に詠んだ。そんな一瞬であるけれど、そこでかわされた会話、しぐさ、見舞う人、見舞われる人の表情、開かれた窓から聞こえてくる鳥の明るい囀り、そういうものが立ち上がってくる一句だ。 腕を這ふ尺蠖しばし見て弾く これも笑った。尺蠖はたまったものじゃないかもしれないが、この人の真実なのだ、きっと。尺蠖は毛虫ほど気味が悪くないので(とわたしは思うが)たまたま腕をはっていても、悲鳴をあげるほどのものでもなく、動き方を観察してみようかとおもうくらいゆとりをもって対応できる虫ではないだろうか。で、しばらく観察した。そして、そっと他所に移した、んじゃなくて、この作者は弾いたのである。尺蠖があれよって空中を飛んでいくさまが見えるようだ。この句、尺蠖であるからこそ、とても納得してしまう。人間の非情さにもめげず、きっと弾かれた尺蠖は地に着地してより体勢を立て直して、また、動きはじめたのではないか。そう、わたしは願っている。けど、作者はそんなことは知ったことではない、という感じ。その非情さがカッコいい。 校正スタッフの幸香さんは、〈引越しの荷物届かず春の月〉という句に、「奈良に引っ越した時を思い出しました。安堵感・ 期待感が伝わって好きな句でした。」ということ。「春の月」でおっとりと気持ちがすくわれるかも、ですね。 子どもたちが中学生・高校生の頃、家と職場以外のつながりを模索して連句と出会い、地元の連句会(俳諧の連歌、五七五と七七の付け合いを楽しむ座)に入会しました。その後、いい発句(立句)を詠みたくて俳句の門をたたき、二十年になります。 昨年(令和元年)、介護していた父を見送ったあと、これまで詠んできた俳句を見直そうと思い、第一句集シリーズⅡ(ふらんす堂)への参加を決めました。 そのような折、新型コロナウイルスの集団感染が日本にも及んで、緊急事態宣言の発令。日常の「当たり前」が崩れてゆく中、三密を避けて外出をひかえ、無防備に交わりを求めていた頃の記憶を辿りました。 自粛要請の緩和とともに新しい生活様式が示され、マスクが必需品となった今は、コロナ禍の収束を祈るばかりです。 上梓にあたり、加藤かな文先生には多くの助言をいただき、身にあまる序文まで賜りました。心より感謝申し上げます。見守り支えてくださった「家」の皆様、武藤紀子先生、「円座」の皆様、そして初学の頃よりお世話になりました岩城久治先生、「東海もくご句会」の皆様に厚くお礼申し上げます。 「あとがき」を紹介。 装丁は和兎さん。 富有柿赤子ころんと寝返りす 集名となった一句である。 児玉裕子さん。 同級のをぢさんバンド山笑ふ 真実が宿るものを詩と呼ぶならば、これらは詩である。私たちはこんな風に暮らしているのだなあ、としみじみ思う。 ぼおと照り映える〈富有柿〉という詩。 (加藤かな文・序より) 平凡な会話机上のシクラメン この一句、「平凡な会話」って何だろうって思った。すべての会話は平凡であって、平凡でない、とわたしは思う。 だけど、シクラメンがおかれている机近くでは、「平凡な会話」があるということがよく分かる。なぜって、それを聞いているのはシクラメンだから。。。。 さがし物ばかり全く十二月 余談ながら、この句、上5中7はそのままにして、わたしの場合は「一年中」だと思った。 それじゃ、俳句にならないけど。。。 「全く」に生きた感情があってまさに同感。
by fragie777
| 2020-11-17 19:44
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