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11月12日(木) 地始凍(ちはじめてこおる) 旧暦9月27日
琵琶湖の水鳥たち。 撮影は対中いずみさん。 午前中は湖岸に水鳥を見に行ってきました。ものすごくたくさん来ています。いよいよ湖の冬到来、という感じです。 一陣の鴨のはばたく音と知る いずみ というメールとともに写真を送ってくださったのだ。 いいなあ、琵琶湖に行って水鳥たちを見てみたい。 すっかり水鳥に心を奪われているyamaokaである。 その対中いずみさんの『シリーズ自句自解IIベスト100 対中いずみ』が出来上がってきた。 自解と言っても句を読み解くというよりは、その句にかかわる情報を書き記しながら、自身の句作りについて見直していこうというものだ。対中さんの場合は。俳句についてどれほどひたむきに向き合っているか、本書を読んでいくとよくわかる。あるいは信頼する俳句の(仲間の)作り手より如何にまなぼうとしているか、すべては俳句のためなのだ。それが切々と伝わってくる一書である。 一句を得るためにどれほどの時間とどれほどの思いを投入しているか、とても正直に書かれていてそれは実作者へのはげましのものとなるのではないかと思う。一句をえるためには、努力をしなくてはいけないことも。そういう積み重ねをとても大事にしていることも、伝わってくるものだ。 師の田中裕明を失って途方に暮れながらもいかにその後を俳句の絆を大事にしながら、句作にいそしんできたか、そんな様子が一句一句の背後から伝わってくる。 思うような句ができない、なんて悩んでいる人におすすめしたい一書である。 前半の部分は、対中いずみさんの目をとおして見た田中裕明を知るのも興味ふかい。 すこし紹介したい。 はたはたのひとつは胸の高さまで 二〇〇〇年春に裕明主宰に入門依頼の手紙を出した。すぐにブルーインクの万年筆の返事が届き、「今回の作品から五句を「ゆう」に投じておきました」とあった。実に拙い句を「作品」と言って下さったことにどぎまぎした。「ゆう」は薄い薄い俳誌であったが、自作が活字になっているのを見て胸が高鳴った。掲載されていた主宰や先輩諸氏の俳句すべてが眩しかった。(『冬菫』) 桔梗の澄みたる空となりにけり 一つの季語をさまざまな角度から詠んでみることも大切、と教えられチャレンジした。桔梗で五十句くらい作った。毎日毎日、頭のなかは桔梗で一杯。朝の桔梗、雨の桔梗、さまざまなシーンを想像しては作った。選後評に「空が青く澄んでいるのですが、桔梗が澄んだという表現によって桔梗の花の色と空の青が重なって見えてきます。たくまずして上々の叙景句となりました」と書いていただいた。 (『冬菫』) 夏めくや膝に花束重くなり 編集部の仕事で、桂信子さんと田中裕明の対談の収録のお手伝いにはりきって出かけたのだが、待ち合わせの駅を間違い、大遅刻をしてしまった。お土産に用意した花束を膝にのせてしょんぼりしている気分を詠んだ。裕明先生はこういうときもちっとも焦らず悠々としている。帰りに梅田のおでん屋に連れていってくれた。私を労いたかったのかご自分が吞みたかったのか。おでんの筍が美味しかった。 (『冬菫』) 夏瘦せて時計の多き家に住む 名栗山雀亭」と前書きをつけた。飯能市名栗に石田郷子さんを訪ねたのは、結局この一度だけだった。郷子さんは「ゆう」を紹介して下さった恩人である。「ゆう」終刊後「椋」に入会し、十五年お世話になった。私は遠出が苦手でお目にかかる機会は少なかったが浅からぬ縁だったと思う。〈さへづりのだんだん吾を容れにけり 郷子〉は〈今朝咲きしくちなしの又白きこと 立子〉と同じくらい大好きだ。 (『巣箱』) 一面の落葉に幹の影が乗り 月に一度岸本尚毅選を受けるメール句会がある。〈一面の落葉に幹の影乗つて〉を添削して下さった。「ゆう」時代、「が」とか「は」は強い言葉なので要注意、「の」ではだめかと考えてみること、と教えられていた。未だに「が」「は」は苦手だが、こういうときに使うのですよと示されたようだった。尚毅さんは形ができていればどんどん採って下さるが◎はめったにない。尚毅選◎は句作時の手ごたえをハッと思いださせてくれる。 (『水瓶』) みなひとのえかてにすとふ邯鄲よ 竹中宏さん曰く、「万葉の歌の表現をそのまま用いて大胆だ。通常に言う写生、写実ではない。作者として自在になり、俳句のなかで自由になっている。どんどんやるべきだ。しかし写生、写実を捨てたわけではないだろう。対中さんはきちっとした写生句もまた出してくるだろう」。こんな風に冒険句を励ましてもらい、けしかけられつつ句を作ってきた。もっと俳句のなかで自由になりたい。 (『水瓶』) 巻末の「私が大事にしている三つのこと」からもすこし紹介しよう。 一つ目の「季語ー移りゆくものへの愛惜」から、 仰臥して冬木のごとくひとりなり 裕明 毎年、冬に葉を落としきった樹木を見ていると、あるとき、病院のベッドにいても、こう詠むことができる。それは、辛いとかさびしいと言うよりずっと作者の思いを届けてくれる。 私にとって季語への愛着は、たぶん、移りゆくものへの愛惜にひとしい。すべては諸行無常、変化の中にある。木の芽がほんのすこしほぐれたり日差しの傾きが変わったり、鳥がふいに啼きやんだり。琵琶湖の湖面も時間差で刻々と変わっている。 すべては変化のさなかにある。世界も自分も。そして出会ったものは、常に、変わること、別れることを含んでいる。移り変わるものへの愛惜─れは今日の出会いに謝し、惜しむ心である。 俳句をつづけていると、季語への感性が深くなる。俳句作品がおもしろいかどうかは、つまるところ作者の季語への感性が冴えているかどうかに多くはかかっているのだろう。毎年毎年、あるいは日々に、季語の感受を深めながら、そこに実人生の私という人間が交差する。その交点から生まれてくる俳句を、これからも詠んでゆきたい。 大事なことのあと二つは、本書を読んで知っていただきたいと思う。 対中いずみさんが代表をつとめる「静かな場所」。 ほかに、森賀まりさん、満田春日さん、和田悠さんがメンバー。 年2回の発行である。 招待作品は、日原傳さん。 「わたしにとっての田中裕明」の2回目は、田中惣一郎さんが執筆。「扇風機の止まるとき」 連載「田中裕明論」は柳元佑太さんで、今回が3回目。「田中裕明と水瀬」。 巻末は「田中裕明の一句鑑賞」 田中裕明を顕彰する冊子である。 玉葱をしこたま大地の会より買ってしまった。 どれも小ぶりだけど充実していそうな面子(?)である。 こう言っちゃなんだが、いや、言わなくても わたしは葱が大好物。玉葱も青葱もどちらも。 どう料理しようかなあって、考えていたらかつてふらんす堂でバイトをしていた大学生の女子Yさんが教えてくれたレシピを思いだした。 玉葱スープである。 玉葱をまるごと1個(一人分なら)鍋にいれてそこに玉葱がひたるほどの水をいれ、コンソメもしくはブイヨンを入れて、弱火で通常のyamaokaなら気が遠くなるほどの時間をかけて煮込むもの。 ストーブの上などに置くのが一番いいのだけど。ともかく弱火で。 すると玉葱が透きとおって、部屋中に玉葱の良い香りが充満してくる。 あまり煮込みすぎると玉葱の形がくずれてしまうので玉葱が美しいままでやめるのね。 そこに塩、胡椒を好みでいれて味見をしてできあがり。 わたしはこのときは黒胡椒と岩塩。 お皿に玉葱ごと盛りつけて玉葱を崩しながらいただきます。 あればベーコンをすこしいれてもいいかも。 スープに玉葱の甘さがあって、体もあたたまり、1個まるまる食べることにもなっておすすめ。 玉葱の泪であるぞひとりきり 田中裕明 岩塩
by fragie777
| 2020-11-12 19:27
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