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10月22日(木) 旧暦9月6日
雨に濡れたコスモス。 今年はコスモスを見る機会も少なかった。 いまちょっとYouTubeで夢中になっている動画があって、家にかえるとそれを見つづけていたりする。 iPhoneで見ているので、階段をのぼるときも、お風呂にはいっているときも、寝るまでみつづけている。 そんな自分を(アホじゃないの…)って思うこともあるが、でも見ている。 昨日、その動画のひとつの背景をながれる音楽、(おそらくはアメリカンポップス)にはまった。 その音楽がよかったのと、動画とよくあっていたのか、ひどくこころを揺さぶられる。 動画の制作者の人のセンスで、この音楽をもってきたのだろう。 今朝も例のハンドスピーカーより音が出るようにして、動画はみないで音楽だけ聴いて朝の支度をした。(動画はもうこころに焼き付いている、エヘッ) ところで、 この音楽がなんという題名で誰が歌っているのか、知りたくなった。 こういう探究心は、わたしとしては珍しいことだ。 なんとか知りたく、仕事場に行って休み時間のときにスタッフのPさんにどうしたら良いか、聞いた。 するとPさんはその音楽を聴いて、「うーん、テイラー・スウィフトかなあ」なんて言いながらちょっと調べてくれた。 しかし、どうやらそうではないらしい。 で、 驚くべきことに、その音楽がかかっているわたしのiPhoneに、あるソフトを立ち上がらせて自分のiPhoneを近づけた。 すると、そこにその音楽と歌手の名前が出てきたのである。 もうびっくりである。 こんな簡単に分かってしまうとは。。、。 凄いね!!! しかもわたしはその英語の歌詞をちゃんと知りたくなった。 するとPさんは、その英語の歌詞がみえるようにしてくれた。(謝!謝!) というわけで、わたしはその音楽をiPhoneに落として、いまこのブログを書いているときも聞いているのである。 お腹にぐっと響いてきて良いわあ。しかも甘美でさえある。 えっ? 何というタイトルの音楽かって? うふふふ、それは内緒。 そういえば、タイトルに「secret(シークレット)」という文字が入っていたことだけはお教えするわ。 新刊紹介をしたい。 (ここで音楽をとめる、集中します) 四六判ソフトカバー装クーターバインディング製本帯有 156頁 二句組 著者の吉田悦子さんの第1句集である。昭和15年(1940)東京・三鷹市生まれ、現在は青梅市に住んでおられる。カルチュア教室で俳句を学びはじめて、20年になられるという。一区切りとして句集の出版を思い立たれたのである。本句集のためにカルチュア教室ので指導をされている俳人・加藤静夫氏が選句をされ、帯文を寄せられた。その帯文を紹介したい。 声高に自己主張する人では無い。 独り善がりの表現に自己陶酔する人でも無い。 背筋をすっと伸ばし、静かに 語りかけるように自分の世界を詠う人。 それが、吉田悦子さん。 ここに慥かに一人の俳人がいる。 印象的な帯文である。 まだお会いしたことのなり吉田悦子というお方を目の当たりにするような一文である。 本句集は、年代別ではなくて四季別の編集となっている。 身の丈のことば即ちあたたかし 遠く見て生家は梅の花の中 ものの芽を見上ぐる空の青さかな 花の下紺に緊まりて登校す 螺旋階段白靴が下りて来る 一セント拾ふ空港夏の果 一頭となりたる牛舎花カンナ 畳目を移る日差や毛糸玉 担当の文己さんが好きな句である。 身の丈のことば即ちあたたかし わたしもこの句には〇をすぐにつけた一句。ご本人も帯の自選に選ばれている句である。すごくよくわかる句であるように思えたのだが、「身の丈のことば」って、わかるようで、ちゃんと説明できない自分がいる。つまり過剰であったりオーバーであったり粉飾しすぎなかったり、自身をよく知っていることば、ということか。へんに卑下したりすると下品で嫌味になる。著者の吉田悦子さんは、帯文に書かれているように、「声高に自己主張しない」「独りよがり」にも「自己陶酔」にも執さない、抑制のよく効いた人、ある意味カッコイイ人だ。ご自身がそうであるから、他者にたいしても、身の丈を出ている言葉に対しては敏感だと思う。嘘のない真実のつつましやかな言葉は、人の心にまっすぐに届き、それは人の気持ちを温かくする。ということなのだろうが、こう書いては本当につまらないな、第一、教訓くさい。そういう内容であったとしても、俳句という詩の言葉として立ち上がったとき、この「あたたかし」が生きてくるのだ。俳句ってすごいよ。つまんなき解釈をするな、この一句で十分ではないかって。いまふっと思った、わたし、駄弁を弄したな。。って。 螺旋階段白靴が下りて来る 「螺旋階段を白靴が下りて来る」と言ったらただの散文である。「螺旋階段」で切ったことによって俳句になった。切れの力を思わせる一句だ。最初に頭のなかに螺旋階段を想起させる。そこを白靴のみが下りてくるのだ。螺旋階段をまず俯瞰させて一挙に白靴へと絞り込んでいく。映画のワンシーンをとるような手法を思わせる一句である。読み手の頭のなかには空と螺旋階段と白靴がのこる。はたしてその先はどうなるのか。。。。 雨に出て由布院の春惜しみけり この句にわたしは立ち止まった。「雨に出て」という措辞にだ。この一句のオリジナリティーはこの「雨に出て」に尽きるように思える。たとえば「雨に濡れ」だったら既視感のある新鮮みのない句になってしまうのだ。「雨に出て」という措辞によって由布院も春惜しむも、ぐっと新しい景となった。たった二文字で景をあたらしくする俳句って不思議だ。吉田悦子さんという方は、その俳句の魔法をよく知っておられる方なのではないかと思った。わずかな言葉の操作によって新しい一句となることを熟知している方なのではないかと。 鬱を病む神父が葡萄棚の下 これはちょっとできすぎの感があって笑ってしまった。きっと実景だったのだと思うが、わたしはすこし余計な情報をこの一句にみてしまい、ああ、神父さま、って思ってしまう。それば葡萄棚による。葡萄といえばわたしはイエスの言葉をすぐに思い浮かべる、「わたしはまことの葡萄の木、わたしの父は農夫である」というヨハネによる福音書の第15章のはじまりの記述だ。聖書には「葡萄」がよく登場するけれど、悩める神父が「葡萄棚の下」にいるというのが、なんだかできすぎのような気がしてちょっと可笑しくなったのだ。だが、あるいは、鬱をやむ神父さまが、慰めをみいださんと葡萄棚の下でやすらいでいるのかもしれない。可笑しがっては失礼である。真相はわからない。でも好きな一句である。 校正スタッフのみおさんはこんなメモをくださった。 「90頁の〈とぎれなく屋根打つ木の実羽根枕〉の句が好きです。こんなふうに寝てみたい」と。 「俳句でも…」と軽い気持でカルチャーの入門教室に入会、受講の帰りに歳時記を購入。平成十二年七月のことでした。 熱くなったり、冷めたりを繰り返しつつ二十年が経ち、一区切りとして、句集上梓を決断いたしました。 上梓に際し加藤静夫先生にはご多忙のなか、再度選句の労をお執りいただきました。その上過分の帯文をも賜り心よりお礼申しあげます。 また初心の頃よりご指導くださいました山﨑千枝子先生、志賀佳世子先生、岩永佐保先生に深く感謝申しあげます。 先生方の教えを糧として今後とも自分らしい句を詠んでゆけたらと思っております。仲間として句座に迎えてくださった皆様のご親切に心よりお礼申しあげます。 「あとがき」を紹介した。 20年という歳月がつまっている句集である。しかし、つまっているというよりも、一句一句がそこに自然に端然とある、すっきりとした句集であると思う。 装丁にはかなりこだわられた。 過剰にならないこと、それがこころのどこかにおありになるようだった。 装幀者は君嶋真理子さん 帯をはすしたところ。 見返し。 カバーをはずした表紙。 扉。 クーターの色は落ちついた緑。 これは本句集のテーマカラーでもある。 わずかな装画の赤みの華やかさが、清雅な品格を与えている。 秋の初風すずかけの木が二本 タイトルとなった一句である。 ここでも言葉をつつしみ、俳句に語らせている吉田悦子さんである。 装丁や色味にもとてもこだわられて、 デザイナーの君嶋さんが1つ1つご要望を叶えていってくれました。 最終的に大変気に入って頂けてよかったです。 装丁を決めるときは句会の方々にお見せして、 意見を聞いたりしていらっしゃったようです。 親族の方にお配りしたら、まず装丁を褒められたとのことでした。 担当の文己さんのことばである。 吉田悦子さま 装丁へのおこだわりが、とてもよい形で結実したと思います。 華やかさをできるかぎりおさえて、しかも、さびしくならないようにどこかに華やぎを、というお気持ち、 それが良い形で実現したと、目の前に御句集を拝見してそう思っております。 身の丈のことば、が、本作りのおいても形になった一冊、 著者の方のこだわりの大切さを教えていただいた一冊となりました。 ありがとうございました。
by fragie777
| 2020-10-22 20:19
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