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ふらんす堂編集日記 By YAMAOKA Kimiko

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田中裕明の句の取り合わせの新しさに感銘を受けて作った句もある、、、

10月16日(金)   旧暦8月30日


田中裕明の句の取り合わせの新しさに感銘を受けて作った句もある、、、_f0071480_18251444.jpg
丸池公園の楝の木の下で遊ぶ母娘。


田中裕明の句の取り合わせの新しさに感銘を受けて作った句もある、、、_f0071480_18252861.jpg

誰かが忘れていったキックスクーター。



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カリンの実。
ひろって、家の玄関に置いた。

緑があざやかで美しい。




猫とモーツァルトの関係であるが、一昨日は、八段錦(中国健身気功)をやるときに、モーツァルトのディベルティメントをかけ、昨日はおなじくモーツァルトのクラリネット協奏曲をかけたところ二日とも、身体にまとわりつかれはげしいスリスリ攻撃にあった。
今日はバッハのゴルトベルク変奏曲をかけてみた。愛猫・日向子の姿はどこにも見当たらない。逆腹式呼吸をしながら、わたしの身体もいまいち解放感がないので、猫をためす意味もあってモーツァルトのピアノ協奏曲23番をかえてみたところ、二階からドドドッって降りてきて、わたしの脚にまとわりつく。
ふ~~む。
やはり、モーツァルトの音楽のもつなにかなのか。。。
あるいは単にわが愛猫がモーツァルト好きなのか。
それともたまたまの出来事なのか。

もう少し様子をみてみよう。





今日の毎日新聞の坪内稔典さんによる「季語刻々」は、 田彰子句集『田さん』より。

 星月夜廃墟となりし造船所     田 彰子

俳句はもう500年近くも続いている。飽きることなく続いているその理由は何か。私見では、二つの物を取り合わせるだけで詩が生まれるその簡便さや不思議さ、それが理由である。句集『田さん』(ふらんす堂)から引いた今日の句などはまさに典型的な俳句だ。ちなみにこの作者は江戸時代の女流俳人、田捨女の末裔である。






新刊紹介をしたい。


長谷川太郎句集『山桜の道』(やまざくらのみち)



田中裕明の句の取り合わせの新しさに感銘を受けて作った句もある、、、_f0071480_18271480.jpg
四六判ハードカバー装帯有り 188頁 二句組

著者の長谷川太郎(はせがわ・たろう)さんは、1948年福島県会津にうまれ、そだち、農業をいとなみ生活をしておられる方だ。本句集は三冊目の句集となり、2015年にはふらんす堂から歌集『書肆の灯』を上梓している。俳誌「秋」「桔槹」同人。本句集に、「秋」主宰の佐怒賀正美氏が序文を寄せている。

佐怒賀正美主宰の序文は、丁寧で心を尽くしたものである。序文を一読すると長谷川太郎さんと俳句とのありようがよく見えてくるものだ。作者の俳句の生まれる生活環境(農牧を中心とした集落)とその土地の背景(会津藩史など)などを踏まえながら俳句を紹介していく。
 
 一つ家へ行着く雪の深さかな
 奥会津ダムの水辺の雪崩かな
 幽冥の色をひきくる春吹雪
 夕凍みや灯の村に下り行く
 冬の夜や牛飼の灯はまだともる
 遠雪嶺畝に茄子苗くばりをり
 草刈つて昼の一献ささやかに
 人好きになるために酔ふ盆の宵
 母つれて虚空蔵参り雁の空
 峠路の普請終へたり滑子汁
 骨折の母に冬着を羽織らしむ

作者の句は、けっして都会風でもないし、現代詩的でもない。むしろ、希少な日本の原風景的な風土にしっかり根を下ろしながら、些事も通俗も多少出入りしながら、とどめておきたいことをひとまず記したという体のものが多い。技巧的にもまだまだ改善の余地は残されてはいるが、温かな気持ちにさせてくれた句に感謝したい。 

「温かな気持ちにさせてくれた」と佐怒賀氏は書かかれているが、まさに牧歌的なのどかさがあって、読み手の気持ちをゆったりとほぐしてくれるのような句集だ。

 初夢の無稽の筋をたどりゐる
 梅咲いて万年筆を買ひにゆく
 春耕や幾年月の古稀の肘
 葉桜の風に想ひはかへりけり
 大いなる牛の吐息や夏木立
 山の端のはるかに明けて涼新た
 過去りし日々の愛しき秋落暉
 全集の揃はぬままに白鳥忌

担当の文己さんの好きな俳句をあげてもらった。

 梅咲いて万年筆を買ひにゆく

梅が咲いたことと万年筆を買うことはなんの因果関係もないと思う。しかし、桜でもなく桃でも無く、梅であることに妙に納得してしまうのはなぜだろう。厳しい冬の寒さがまだ充分に残っているころ、梅の花は咲く。雪深い山里くらしの作者である。寒さで緊張していた心梅の花の咲いたのをみてふっとこころもゆるむ。文章を書くことがお好きな長谷川さんにとっては、梅の花の開花とともに創作心を呼び起こされたのだ。この句は、万年筆のインクを買い足すのではなく、万年筆を買いに行くのである。わざわざ買いに行くのであるからそれなりの万年筆である。山里から離れたデパートなどがあるにぎやかな町まで行って万年筆を買う。浮き立つ心がこの一句から伝わってくる。どれほど「万年筆」というものが、作者にとって大切なものか、そんなことも想像される。パソコンで創作行為をするのでなくて、万年筆での創作行為だ。きっと何本目かの万年筆だろう。わたしも万年筆をよく使う。好きでデパートの文房具売り場で眺めているだけでも好き。万年筆へのある種のロマンは、昭和生まれの団塊の世代くらいまでなのかもしれない。梅が咲いて、万年筆を買う、あらためていいなって思う。

 全集の揃はぬままに白鳥忌

この句もやはり昭和の戦後生まれの人間の匂いがある。白鳥忌の「白鳥」は正宗白鳥、明治から昭和にかけて活躍した作家であるが、いまではもうあまり読まれなくなっている。文学青年であった作者は若い頃に読み、全集をそろえようとおもうくらい好きな作家のひとりであるのだろう。しかし、全部はそろわなかった。忌日をむかえてつくづくと思ったのだ。全集はそろわなくても、白鳥への思いはある。正宗白鳥は、キリスト教の洗礼をうけた作家である。集中〈基督を説くひとと食ふおでんかな〉という句もあって、キリスト教的命題を心にのこしたままの作者なのかもしれない。

 無住寺に僧来る噂柿若葉

これはわたしの好きな句。「柿若葉」がいいなあって思ったのだ。「柿若葉」って淡緑色であかるくてつやつやとしてやわらかで、見ているだけでこちらの気持ちも照らされて明るい気持ちにさせられる。僧侶のいない無住寺はそっけない。人の心を寄りそわすには、いささか頼りないものだと思う。そこに僧侶がやってくる噂が流れた。山里にすむ作者にとってはちょっと嬉しい噂だ。(ほんとうであれば……)と目をあげると柿若葉がまぶしい光を放っていた。きっとやって来られるにちがいない。

長谷川太郎さんは、俳句のみならず短歌もよくし、また、散文にも力を注いでおられる。
巻末には、〈故郷の古道」と題した散文と、「拾遺六葉」と題した俳句にまつわるエッセイ四篇ととふたつのエッセイを収録している。
ここでは、石原八束の俳句によせたエッセイを紹介したい。

 老醜のレンブラント自像身にしむや  八束

レンブラントには〈夜警〉という有名な絵がある。しかしこの十七世紀ヨーロッパの巨匠は、歴史画や風俗画の大作とは別に、人間の内面性に肉薄した地味な作品、特に自画像を数多く描いた。その自画像によって私達は、画家レンブラントの輝かしい全盛の時代から、一転して失意困窮の晩年に至る、六十三年の波乱の生涯を辿ることができるかのようである。
私は画集で、レンブラント五十五歳(一六六一)の時の、〈聖パウロに扮した自画像〉を見て、曰く云い難い感銘を受けた。この絵には若い頃や全盛期の自画像の、輝きの名残りすらないのである。市井の裏通りにひっそりと暮らす老人のような姿が描かれている。目はきく見開かれてはいるが、光は乏しく人生の盛りは過ぎ去ってしまった淋し気な老人の顔である。肖像は明らかに年齢よりも老けている。レンブラントの失意の心境は知る由もないが、自分自身の落魄の姿をこのように容赦なく描き出す芸術家魂とは凄まじいものだと思った。浮世の荒波に翻弄されて来た境遇が透視され、見るほどに不幸な人の心の襞まで写し出されている気がしてくる。絵に見入っていると私は還暦を過ぎた自分の境涯を目の当たりにしているような、妙な実感に囚われた。それは、画家が自分の老年の真実の姿を描きながら、「老い」の普遍性を確かに捉えているということなのだろうか。
上掲句。石原八束は、レンブラント晩年の自画像に、自身にも迫って来ていた、「老い」の心境を重ね合わせて、沁み沁みと詠んだのである。


 冬の夜や牛飼の灯はまだともる

この一句も好きである。佐怒賀氏も序文でとりあげておられたが、働く人を照らしている灯である。わたしはこういう現場を訪ねたことがないからなにをして働いているかはわからないのだが、そこにはきっと牛も牛飼いもいて、寒い冬の夜を灯のみが照らしている。灯が消えれば労働は終わる。それを見ている作者、そこに働く人、農牧で生きるひとたちの素朴なありようが寒い現場であろうはずなのにあたたかく伝わってくる。


ここに収めたのは俳句二百五十一句、随筆一編、そして「拾遺六葉」と題した六つの断片です。俳句は平成二十七年より令和元年までに書き留めた作品の中から選出し、今度句集収録に当たり、推敲を加えました。後の文章の方は、全て過去に「秋」誌に掲載されたものです。短いながらどれも思いを入れて書いたので愛着もあり、私は文章の方を句集の付録と考えてはおりません。
俳句の配列は年代順でなく、また歳時記に拠る季節別の明確な分類でもなく、変則的ですが、在所、東北農村における一年間の季節の移ろい、生活の流れに添って配列致しました。しかし数年に亘り作られた作品なので、意図的に構成されていることが、難点であるとも思われます。
句集の校正段階で自作品を幾度も読み直して、私自身の拙劣な俳句表現力を痛感しました。作品は十七音の有季定型に収まっているものの、そこから切実な真情が読み手に伝わってこない。端的に云ってスタティックな凡作ばかりが目に付き、私は一時、句集を出すことへの疑問が湧き起こりました。そうして今更ながら制約に縛られる俳句という表現のジャンルで、新しい真実を詠みきることの難しさを実感しました。こうして、「あとがき」を書きながら、今では作中に、自己の「存在」の証が少しでも捉えられていれば……と願うばかり
です。

「あとがき」を抜粋して紹介した。


本句集の装幀は、歌集『書肆の灯』とおなじく君嶋真理子さん。


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風合いのある用紙を用いて、タイトルは黒メタル箔。


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質朴な味わいがある。

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表紙は布クロス。あかるい緑。


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見返しは、カバー、帯と同じ用紙の色替え。


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扉。


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花布は、黒。
スピンは、グレー。


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 過去りし日々の愛しき秋落暉


釣瓶落しの秋の夕日を眺めながら、これまでの日々を「愛しき」と肯定的に捉えている。もちろん、良い出来事ばかりではなかろうけれど、すべてを自分を通過した出来事として受容し、愛おしみながら、これからの老いの日々に入ろうとしているのであろう。
                         (序・佐怒賀正美)



句集が出来上がって、その感想を担当の文己さんが、著者の長谷川太郎氏に伺ったところ、お電話で以下のようなことをお話してくだったということ。
紹介します。

俳句は奥が深くて難しい。俳句よりも自己表現ができる文章の方がお好きかもしれないとおっしゃっていました。(石原八束先生は文章も素晴らしかったということ。)これからは老後の楽しみとして文章執筆と向き合っていきたいけれど、俳句を続けてきたことが文章を書き続けていく上で必ず糧になるはず、とのこと。
今回の「郷里の古道」「拾遺六葉」も句集の付録としてではなく、一つの作品として読んで頂きたいとのことです。

田中裕明の句の取り合わせの新しさに感銘を受けて作った句もあるとのこと。



文章を書く、ということに力をいれておられる長谷川太郎氏である。

田中裕明さんの俳句も読んでおられることは、知らなかった。。。

文章のみならず、俳句もさらにさらに取り組んでいってくださいませ。

とyamaoakは申し上げたいです。










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by fragie777 | 2020-10-16 20:35 | Comments(0)


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