カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
10月12日(月) 旧暦8月26日
近所の丸池公園の栴檀の木。 楝(おうち)とも言う。 夏に来たときは、栴檀の花のさかりでそれは見事だった。 これは実。 美しい淡緑だ。 秋が深まるにつれて、この緑が黄色くなっていき、やがて美しい枯色となる。 「ふらんす堂通信」編集期間である。 コラムのお題は、「寝る前にかならずやること」 これはわたしが提案して採用されたのだけど、自分で提案して実は困った。 10代からずっと続けていることがあるのだけれど、そしてそのことを書き始めて、 やめた。。。 自分の実存にかかわること、なんて言ったらちゃんちゃらおかしいが、書きたくなくなったのだ。 で、ほかにあるかなあって考えたらすぐに思い浮かんだことがある。 ソイツについて書いた。 新刊紹介をしたい。 俳人・斎藤夏風の全句集である。斎藤夏風は、昭和6年(1931)東京生まれ。昭和28年年俳誌「夏草」に入会、山口青邨に師事。昭和37年(1962)「夏草新人賞」昭和40年(1965)「夏草」同人、「夏草」編集長。昭和61年(1986)「夏草賞受賞」。昭和60年(1985)にから平成29年(2017)年まで俳誌「屋根」主宰し、多くの若手俳人を育てた。本全句集は句集[埋立地』『桜榾』『次郎柿』『燠の海』『禾』『辻俳諧』(第50回俳人協会賞受賞)『辻俳諧以後』の7句集を収録した全句集である。ほかに句集解題(染谷秀雄)、略年譜、初句索引、季題索引が収録されている。 俳人・深見けん二氏とは師をおなじくする俳句仲間であり、斎藤夏風氏は深見先生を心から敬愛されていた。 本句集の刊行を深見先生は切望されておられ、この刊行の実現にご尽力とご協力をいただいた。 また、俳誌「秀」の染谷秀雄主宰をはじめとして「秀」に集う元「屋根」の方々による思いとご協力によって、この度の刊行となったのである。 第1句集『埋立地』に寄せた山口青邨の序より抜粋して紹介したい。 千鳥走り塩浮き残したる地表 埋立地の北風にひからぶ不思議なパン 人落す影に埋立地が凍る 奔放な北風が海巻く陸は未完 埋立地といふものに執拗に食ひついてゐる積極性に驚いた。同時にあまりに強調に過ぎて何か現代詩的ムードに浸ってゐないか、若い作者としては大胆だと思った。 以上特に指摘したことは作者固有のものであらう、私はあえてこれを矯めようとは思はない。夏風君は東京っ子、しかも若い、ナイーブで敏感で繊細で知的である、みんな詩を作るものには大切な要素である。しかし作品はとかく脆弱になりがちである。万華鏡の美だけでは空しい。「感覚だけで描いてはいけない」─これはボナールの言葉だ。俳句も同じだ。 私は夏風君にデッサンをしっかりしなければ駄目だ、作品がよろよろ、形が崩れる、描写も不充分、腰を強く構成の骨組をしっかりしなければと口癖のやうに言った。 私は昭和三十七年夏風君を夏草新人賞に推した、十年間の熱心な句作態度とその成果にむくひるものだが、特に後半に於ける若人らしい積極性を評価したやうに思ふ。 1994年に刊行した現代俳句文庫24『斎藤夏風句集』において、深見けん二氏が「斎藤夏風小論」として解説を寄せている。その一部を紹介したい。 太陽に垂れてをりけり梅黄葉 梅と桜を四季を通じて愛着をもって詠みこんでいる。梅の黄葉もまた美しいが、太陽に垂れてをりけりということで、目の前にまざまざと梅黄葉が存在する。 寒鯉の背鰭の水はぬめりけり この句は昨年の年鑑の句であるが、この「ぬめりけり」は見事な描写である。それによって寒鯉そのものが、まぎれなく詠まれ、余韻がひろがってゆき、まっすぐに本質に迫っていくところがある。 長命寺天水桶の花筏 吟行でたまたま向島長命寺を通りかかり、その大きな天水桶の花筏との出会いの句。長命寺という固有名詞が生かされている。 くわりん落つ東京の日のかけらもち 鉄筋を曲げるいてふが遠くで散る 柿を捥ぐ河口は常の暗さにて 中秋のけふは娘が焼く卵焼 蜻蛉の行手波立つ最上川 虚子旧居まで秋風の坂すこし 秋出水流れゆくもの横向きに 月光のさしかかりきし小抽斗 平目喰つて比叡にありぬ盆の月 澄みわたる鴉の水場十三夜 咲きのぼり咲き下る香や葛の花 棒稲架に落日の靄たちにけり 新藁のみどりさみどり日の落ちる 走り穂の禾の青さを山の風 父の鎌母の鎌あるちちろ虫 鹿とほる南大門の常夜燈 青ばつた赤ばつた田は大翳り 新盆の雨吾ひとり僧ひとり 本句集より、「秋」の句をいくつか紹介した。 第七句集『辻俳諧以後』を刊行した後、次は『斎藤夏風全句集』を刊行して俳人斎藤夏風の作品を一つにまとめ研究の資料として残すことが必要であると多くの方々から示唆を受け、再度資金を集めて全句集を刊行することを決意した。そこで刊行にあたり改めて旧「屋根」会員ならびに「秀」会員にお願いをしたところ、趣旨に快く賛同してくださるとともに一部、俳壇関係各位からも資金援助をいただくことができ、ようやく刊行の目処が立った。特に深見けん二先生には本書の構成面で多くの貴重なアドバイスをいただき資金面でも格別のご支援をいただいた。ここに改めて厚く御礼申し上げる。 染谷秀雄氏の「あとがき」を抜粋して紹介した。 染谷氏は、本句集の刊行にあたっては、刊行推進の中心となってお力を惜しまずにがんばられたのだった。 装幀は、和兎さん。 斎藤夏風という俳人のもっている質朴な部分と都会的な部分をそこねないような装幀を心がけた。 タイトルは黒メタル箔で力強く。 帯の用紙は、黒とこの色と二つを提案したところ、こちらの色が選ばれた。 表紙。 扉。 寒鯉の背鰭の水はぬめりけり 山口青邨を生涯の師と仰ぎ、「季題というのは現場そのものではないか」という確信に立って、あくまでも現場での多作多捨を実践していった斎藤夏風の全句集。現場によって鍛えられた強靱な写生力によって作品に生命の活気を呼び起こし、その描写力は余韻の広がりと普遍性を獲得している。 帯に書いたもの。 「現場」における写生、というのが斎藤夏風のテーマである。 さきほど紹介したかつて刊行した現代俳句文庫24『斎藤夏風句集』のにおいて自身の「俳句信条」を記している。 「俳句縦横」と題して、簡潔でたいへんわかりやすいものである。「句会」「現場・風土」「写生」などの項目をたて、短文で的確に述べているものだ。 ほんの少し、紹介したい。項目ごとにいくつかのパラグラフによる構成となっている。 句会という場は、俳句が鍛えられる場であると言われるが、これは句会の進め方とその座での身の置き方如何によるものだ。漫然と句会に出て、投句し、選句し。披講で自分の句に名乗りをあげ、何点入ったと満足して帰っても、それだけで鍛えられるわけではない。討論がありそれに作者自身の共鳴があって、その句が作者の心共に実際に完成に向かってゆくという繰り返しを続けていって、初めて鍛えた句、鍛えた人と言えるのだろう。それは年齢ではない。(句会) 〇 写生俳句では、自分の言葉であるかどうかも大切なことの一つだ。対象が作家の心とひびき合って自然に言葉になって出てくる。こう書くのは簡単だが、作品にするのは大変なことだ。言葉だってすらすら出てこない。作り続けること、多くのものを知ることによって対象がこなれ、周囲と共に存在そのものが見えはじめ、そこで自己の蓄積した語彙がひらかれ、言葉が流れる。多作多捨だ。言葉はあくまで自己の問題である。だから推敲も大切だ。素朴でもよい。自分の言葉だと確認してゆくことだ。(写生) 〇 俳句は、好きなもの、好きなことを手がけたときは、大いに視点が広がるように思うことだ。好きなものはいくら見ても飽きない。飽きずに見続けるから尚一層多くを発見する。その感動がその時現在の俳句になる。(写生) 〇 現場に立ち、句帳を広げ、五感を働かせて存在を見つめる。戸外でも、家うちでも同じだ。快い緊張感だ。そして或時間を過して一句を成す。結果としての写生行動の収束である。作家は、対象が時の中で必ず何かの動きを見せてくれることを信じてそこに立つ。対象と作者との信頼関係が成立している。「作句の磁場」である。そして存在を讃える一句となる。(写生) すでに品切れとなってしまっているが、「俳句縦横」には、俳句へのすぐれて実践的な考察が記されている。
by fragie777
| 2020-10-12 20:10
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||