カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
10月10日(土) 旧暦8月23日
菊と蜂。 今日は、雨降りの寒い一日となった。 田中裕明・森賀まり共著『癒しの一句』より、今日の日付のものを紹介したい。 ものいへばふたりの様なあきの暮 服部土芳 そうでなくとも、さびしく静まりかえった秋の夕暮である。ひとりでいることがさびしい。ただことばを発すると、まるで二人で対座しているような気がしてくる。 作者服部土芳(はっとりどほう)は伊賀上野の人。富商の家に生まれたが、養子に入り藤堂藩の服部氏を継ぐ。11歳のころ、芭蕉に俳諧の手ほどきを受けた。その18年ののち、師に再会してからは、一途に芭蕉に傾倒し、ついには致仕して、蓑虫庵という草庵に隠栖した。 「さびしさの何処まで広く秋のくれ」もという句もある。こちらは同じ季語だが、空間的なひろがりをとらえて、人生の寂寥感にまでいたっている。掲出句はそれにくらべれば、もっと親しげで人恋しい。『蓑虫庵集』所収。(秋の暮・秋)(裕明) 朝、太極拳をするときにモーツァルトのレクイエムを久しぶりにかけたのだが、愛猫の日向子がやけに脚にまとわりついてきてこまった。 モーツァルトの音楽がもっている力なのか、(モーツァルトには癒しの力があるとよく云われるが、しかし、レクイエム、つまり死者のためのミサ曲である。)、それともわたしの身体から発する気が良い気を発して猫を近づけさせるのかわからないのだが、今日は八段錦から太極拳が終わるまで、わたしの身体に触れてきた。 ただとても足でまといになるので正直なところ困ってしまった。踏んでしまいそうになったり、足で払ったりしそうになるのだ。 猫は不思議な動物である。 何かに反応していることは確か。 ときどきこういうことがあるのだが、はたして音楽に反応しているのか、それとも別の何かに反応しているのか、ちょっと注意深く観察したいと思っている。 もっとも、わたしの好きな音楽評論家の吉田秀和さんによると、モーツァルトのレクイエムは、「死の影においかけられた一人の天才の達成した奇跡としかいいようのない音楽」であり、「とても座右において終始きくなんて生やさしい音楽ではない」ということである、。 太極拳の演舞のためのバックグランドミュージックにしちゃっていいのか、とお叱りを受けそうである。 さりながら、わたしの凡庸な耳と魂には、結構よろしいので。。。。 かまやしないのである。
by fragie777
| 2020-10-10 21:27
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||