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10月9日(金) 旧暦8月22日
萩と蝶。 萩には黄蝶がよく映える。 この日とりわけ萩が美しかった。 今日の毎日新聞の坪内稔典さんによる「季語刻々」は、甲斐のぞみ句集『絵本の山』より。 陸上部花野を走り抜けにけり 甲斐のぞみ 季語「花野」は秋草の咲く野。陸上部は花などに構うことなく走り抜けたのだろう。句集「絵本の山」から引いたが、草花を気にする陸上部部では強くなさそう。実は高校時代の私は陸上部。草花が好きで、練習の途中でしばしば脱落し、道端の草花にかがみ込んだ。自慢じゃないが、草花好きの弱陸上部員だった。 そういえばわたしの好きな坪内稔典さんの句に、 がんばるわなんて言うなよ草の花 坪内稔典 というのがあるが、陸上部でも坪内さんは「がんばらない」人だったのかなあ。草の花に「ああ、シンド」なんて話しかけていたのかもしれない。 秋草を愛でる可愛らしい男子っていうのはいいよね。 新刊紹介をしたい。 ![]() 鰻食ふ手にもてあます旅鞄 黄昏のあかるさに耐へ雁わたる こでまりやきれいに掃いて寺の奥 死ぬことの不思議見てゐる寒さかな 馬の名は一葉といひ暑に耐ふる 水たまりとんで涅槃の僧きたる 蝉時雨太極拳を遠巻きに 福島せいぎ氏は、徳島市にある大きなお寺のご住職である。略歴には、真言宗万福寺名誉住職とある。作品を読んでいるとそのことはおのずと分かってくる。 こでまりやきれいに掃いて寺の奥 好きな一句である。お寺には萩の花がよく似合うと思う。秋に奈良の寺巡りをすると萩を咲かせている寺が多い。新薬師寺は訪ねたなかでも萩がきれいだった。ここでは、「こでまり」だ。こでまりの花も端正な愛らしさがあって好きな花である。境内がきれいに掃かれているととても気持ちがいい。福島氏のお寺は大きなお寺であるようなので、お掃除もたいへんだ。広々として丁寧に掃かれた境内。それだけでも風遠しのよいものを感じる。そこに住み仏につかえる人の心までも、清々しくおもえてくるように。そしてその一画に咲いているこどまりの花、この句から推し量ると境内の奥の方に咲いているのかしら。こでまりのようなつつましい雅趣のある花が植えてある、というだけでも好ましい。広々とした境内の奥に清雅に咲く白い花、わたしたちの心はそこに収斂されていく。 水たまりとんで涅槃の僧きたる これもお寺の風景のワンショットである。若いお坊さんなのだろうか、水たまりを跨ぐのではなく、「とんで」やってきたのだ。袈裟懸けであるのだろう。なんとも闊達な僧である。「涅槃会」の法要にやってきたお坊さんである。釈迦入滅の厳かな法要である。それに携わる僧侶たちは現世を生きている人たちである。飛んだりはねたりもしながら生きているのだ。この句、水たまりを飛ぶ僧侶も自由であり、それを詠む作者の心も自由である。この僧を面白がっているそんな視線だ。しかつめらしさから自由である僧侶をみるのは気持ちがいい。 死ぬことの不思議見てゐる寒さかな この一句も面白い一句である。住職であるならば、人間の生き死は身近である。特に死は、日常茶飯な出来事かもしれない。しかし、僧である作者は、眼前の「死」を不思議なものとしてとらえているのだ。何度も何度もくりかえして見て来たはずの「死」であるのに、理解しがたいもの、解答のないもの、僧侶という属性を超え、それはひとつの不思議として作者に迫っているのだ。悲しいとか恐ろしいとか、そういう感情さえもなく、生きていたものが死んでいく、それをただ見ているのである。いつも見慣れた死ではなく、まったく新たなる不思議として見ている。その不思議は厳然と作者に迫ってくる、安易な解答がないことがいっそうの寒さを呼び起こす。 本句集の巻末のエッセイ「私と台湾」「台湾の俳人」を読むと、台湾の俳人黄霊芝氏と深い交流のあることがわかる。 私にとって、台湾は第二の古里である。私の台湾への思い入れは、年を追うごとに深くなってくるが、黄氏との出会いがなければ、私の台湾に取材した三冊の句集も生まれなかった。二〇〇七年には、花蓮県吉安慶修院に私の句碑が建った。日本の俳人としては、台湾で最初の句碑とのことで、まことにありがたいことであった。(エッセイ「私と台湾」) とあり、主に台湾の俳人、黄霊芝氏との交流について書かれている。 黄氏は、台湾を代表する作家である。小説から俳句、短歌、詩、評論、随筆、翻訳、学術論文、彫刻まで、幅広い分野で活躍している。しかも、どの分野でも第一級の作品を生んでいる。氏の作品の多くは日本語によっているが、「私には、日本への崇拝もあこがれもない。親日家でもない」と言い切る。一九七〇年には、中国文による小説「蟹」で第一回呉濁流文学奨を受賞している。かたわら、台湾唯一の日本語による俳句会「台北俳句会」を創設し、四十六年に亘り、指導に当たってきた。(エッセイ「私と台湾」) そして本句集の解説を黄霊芝氏が書かれている。 句をとりあげなから、鑑賞をしている。一句のみ紹介したい。 海と空ひとつづきなる朧かな 朧とは視覚に訴える明るさの抽象的な名詞で、見えるといえば見え、見えないといっても嘘にならない、そんな頼りない明るさであるが、やっぱり何かが見えるのだ。そんな天と海。海とは不思議なもので、地球上の陸地以外を満たし、陸のように国を形成することは古来なかった。そしてどこの海もが高さを同じくし、海抜という言葉を生んだ。ガラス瓶に手紙を入れて海に流すと、案外に台湾の浜とアルゼンチンの浜とがつながってしまう。フランス語の海はメール(mer) といい、これは母(mère)と同じ発音である。そして空とともに「太古」を匂わせる。 とまれ、この句では天空と海原が果てしないほどに広がっており、それを諾う形で、または有耶無耶のうちに両者を墨絵ぼかしに一括してしまう権限を「朧」に託したらしく思われる。この句には混沌たる中での秩序があり、でたらめでない神秘さが詩人を支えて息づく。 私は「偶然という出会いはない」ということばを信じている。 本句集には、平成二十五年までに刊行した七冊の句集より、四〇〇句を選んで収録した。『台湾優遊』は、二十年間の台湾の旅の印象をまとめたもの。『青春』は、二十代から四十代までの作品。『沙門』は、五十代の作品。『天蓋』は、六十代前半の作品。『虎の陶枕』は、六十代後半の作品。『遊戯』は、七十代前半の作品。『台湾抄』は、私にとって第二の古里である台湾の人たちとの出会いから生まれた。 解説は、私にとって良き師であり友である台北俳句会会長の黄霊芝先生の文章からいただいた。 今日まで私を支えてくださった句友や全ての人に感謝したい。 「あとがき」を紹介。20代から俳句を作り続けてきた俳人・福島せいぎの精選句集である。 昨夜はぐたぐたとなって家にたどり着いたyamaokaであったが、心配をしてくださったお方もいらして有難いことであるけれど、大丈夫、すぐに元気になったわ。 家にかえるとね、魔法の薬があって、ビタミンYとでも呼ぶべきかしら、それを「味わう」とみるみる元気になってしまうのよ。 そしてね、シアワセな気分になって眠りにつくというもの。 やすい女なのよ。yamaokaは。。。。 呆れちゃうでしょ。 いったいどんな薬かって? ふっふっふっ。 言うもんですか。 おやつにスタッフにふるまったチョコパイ。 ハロウィン仕様でかわいいのに感激。
by fragie777
| 2020-10-09 18:51
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