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10月6日(火) 臥待月 旧暦8月19日
水の秋。 今日は家と仕事場を行ったりきたり、大忙しであった。 午後3時以降からは、「鍵和田秞子全句集」の季語索引の読み合わせ。 在宅で仕事をしている文己さんとリモート環境の下でやり、その後をPさんが引き継ぐ。 それぞれ自分の仕事の手をやすめての読み合わせである。 ほぼ3時間半、わたしはぶっ続けで声をだし、かなり疲れてしまった。 「もう少しやりますか」と言われ、 「ダメダメ、これからブログを書くから」と断る。 今日は遅くなってしまいそうである。 「ふらんす堂通信166」の編集期間でもあり、校正スタッフの愛さんが朝からやってきて校正をしている。 いまもなおわたしの前で続けている。 愛さんは、ある大型書店でも仕事をしているので、書店情報などをときどき教えてもらう。 「コロナになって、どう、売り上げ減ったりしているの」と聞くと、 「いいえ、それが伸びているんですよ」ということ。 多くの人が出掛けないで家にいるようになり、本を読む人がふえたとか。 また、みなあらかじめ電話などで予約をして、書店にいる時間を短くして本を受けとりにくるのだそうだ。 「そういうお客さんがものすごく増えました」と。 本を読む人が増えたことは嬉しいし、それに伴って売り上げが伸びていることも嬉しい情報である。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装帯有り 198頁 二句組 令和俳句叢書 初句索引 季語索引付き 俳人・南うみを氏の第三句集である。 南うみを氏は、昭和26年(1951)鹿児島生まれ。平成28年(2016)神蔵器より俳誌「風土」を継承主宰。第1句集『丹後』により第24回俳人協会新人賞受賞。本句集は、前句集『志楽』に次ぐものであり、平成24年(2012)から令和2年(2020)前半までの300句を収録したものである。 栞を中田剛氏が寄せている。 見えぬ火が籾殻の山のぼりゆく 火をつけた籾殻山の麓から頂へ向けて「見えぬ火」がひろく舐めるようにはい上がってゆく。まるで生き物のように。この句を見ていると「見えぬ火」の「見えぬ」を消し、さらに「火」さえも表現の上から消したうえで「火」の実体を表現したくなる。イメージに直接つながる言葉を拒みながら対象のイメージを結びつつ本質に迫ることができないか。そんな空恐ろしいことを考えさせる句だ。 南うみをさんのすこぶる巧みな俳句は、石田波郷を源流とする「鶴」系統のとりわけアルチザンの匂い濃い俳人群につらなるようにも見えるが、旧世代と比べると、対象(存在や現象)の細部描写にのめりこむ度合いがかなりつよく、そのぶんよりスタイリッシュではある。 「見えぬ火」と題した中田剛さんの栞を抜粋して紹介した。 南うみをさんが、一度は評のことばをもらっておきたい俳人と言っておられたように、南うみをの俳句のすぐれた理解者である。 「対象(存在や現象)の細部描写にのめりこむ度合いがかなりつよく」とあるが、本句集においては、まさにその「細部」が際だって読者に迫ってくるのである。 細部にやどる命(いのち)の力が押しよせてくる句集だ。 ひばり揚がる声がひかりに変はるまで 熊ん蜂うなりて花を鷲づかみ 吞まれゆく蛙や脚を真つ直ぐに きゆつきゆつと鳴くきぬさやを袋詰め 猪撃ちの髭の凍つてをりにけり 荒草の春のあられを撥ねどほし 綿虫にはげしき翅音ありにけり 牡蠣割のふり向きざまに手を焙る こそばいぞ蟻はひ歩くつくしんぼ 句集前半の句を抜いたが、抽出句だけでもわかるように、ここにはすべてのものが躍動している。虫も草も人間もあらゆる生きとし生けるものが、その生をまっとうせんと命の限りをつくしている。 生きる途上にあるすべてのものの命の躍動を瞬時に詠みとめているのである。 一句は静止することなく、命のエネルギーを放出しながら読み手に迫ってくる。 本句集の最大の魅力だ。 歯朶刈るやこほりの雫うち払ひ なんともダイナミックな一瞬だ。肉体の動きが見え、刈られる歯朶、飛び散る氷のしずく、その動作は完結することなく次の動作へと移っていくのだ。しかし、切り取られた一瞬は次の動作を予測させながらも一瞬の景としてわたしたちの脳裏に焼き付けられる。それはこの句にかぎらず、「変はるまで」「鷲づかみ」「真つ直ぐに」等々においてもそうであるが、「うち払ひ」と下五をおくことで、完結されない生のありようが、命あるものの生きる現場がリアルに伝わってくるのだ。そして読むものをその現場に引き摺りこまんとする力を感じる。 どんぐりのめり込んでゐるひづめ跡 この一句も好きな句である。「どんぐり」が季語。これもなんとも荒々しい一句である。作者は「どんぐり」という季題をそれとして詠むというよりも万物の関係性のなかで詠もうとするのだ。あえていえば生きもの同士のせめぎ合いのなかで、命をはっていきているものとして、詠む。それは作者が農業に従事していることとあながち無関係とはいえないとわたしは思った。つまり農作物をつくる、ということも戦いである。自然との闘いであり生きもの同士の闘いでもあり、命を得るためのある意味過酷な闘いなのだ。そういうものを背負いながらの日々の生活であり、それもまた俳人としての南うみをのありようなのである。大地にその身体をめり込ませながら、水の匂いを泥の匂いを風の匂いを嗅ぐ。万物の鼓動は、都市生活者などよりはるかによく聞こえるだろう。そういうところから生み出された一句一句なのだ。 一人だけ膝を崩さぬ虚子忌かな 好きな一句である。この句もまた、南うみをという俳人の俳句に対する姿勢がみえる。観念をのべるのではなくて、やはり動作でその心情をさりげなく伝える。しかし、この句にはほかの多くの句にあるように能動的な躍動感は抑えられ、虚子ににたいするつつましやかな畏敬がさりげなく詠まれている。これもまた南うみをさんのもうひとつの顔である。〈推敲か日向ぼこかと問はれたる〉という一句もあって、仕事の合間の日向ぼこをしながら俳句を推敲している作者だ。生活者として農作業をしながら、俳人としての詩心は恒に研ぎ澄ましている。 句集名は「凡海」と書いて「おおしあま」と読む。 最初なかなかおぼえられす、つい「ぼんかい」と言ってしまった。 「凡海」は私の住んでいる舞鶴の海、ひいては若狭の海の古名です。「凡」には風のようにすべてにゆきわたるの意味があります。古人は大陸の文化と繫がり、豊かな海の幸をもたらすおおらかな海としてそう呼んだのではないかと考えています。 また私の名〈うみを〉とも重なり、広やかな心で俳句に向き合いたいと思い句集名としました。 「あとがき」にその意味が語られている。 「おおしあま」と口に出して言ってみると、海のうねりが心にひろがっていく。雄々しさもあって、いい。 舞鶴の海、と聞けば詩情もそこに加味されてくる。 装幀は和兎さん。 当初、和兎さんはすこし心を悩ませたようだ。 いろいろとラフイメージをつくっては、反故にしていた。 わたしからの装幀への要望にすこしがんじがらめになってしまった。 すこし時間を経て、自由になったときに出来上がったのがこれ。 というか、いろいろとあったなかで南うみをさんが選ばれたのがこれであった。 それも南うみをさんの娘さんが「これがいい」と選ばれたそうなのである。 南さんが暮らす丹後という伝統ある土地の雅趣を感じさせるものだ。 タイトルは黒メタル箔。 帯は金。 表紙は金茶のクロス。 扉。 花布は、紺と白のツートン。 冬空が鍬打つたびに圧してくる 本句集には、生命の躍動のみならず、景色も躍動する俳句世界がある。 ほかに、 魚嗅ぎし鼻を椿に押しつける 鯉の背を走り抜けたるあめんぼう 猪噴きし穴に花びら吹き溜まり 棚田から日本海へ堰外す くちなはの水のごとくに岩すべる この句も好きな句である。蛇の句なので、苦手な方もいるかもしれないが。仙川沿いを歩くようになって、大きな蛇を目にするようになった。川を優美な曲線をみせながら泳いでいたり、岩の上で日向ぼっこをしていたり、「くちはは」も造形的には美しい動きをみせるものだ。この句、「水のごとくに」が眼目だ。岩をすべっていくくちなわが全身をのばして水のように身を透きとおらせた。美しい一瞬だ。 近影写真を送っていただいた。 団塊の世代である。 〈団塊と呼ばれトマトに塩を振る〉という句が句集に収録されている。 「トマトに塩を振る」気持ちわからないでもないな。。。 「風土」10月号 目下「石川桂郎の俳句鑑賞」を連載されている。 いずれ「石川桂郎の百句」として一冊にさせていただく予定である。
by fragie777
| 2020-10-06 21:05
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