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10月2日(金) 十六夜 水始涸 旧暦8月15日
仙川沿いに咲く曼珠沙華。 ここに曼珠沙華が咲くことを今年はじめて知ったのだった。 じいっと見ていると、頭ン中がくちゃくちゃとしてくる。 今日で「鍵和田秞子全句集」の初句索引の「読み合わせ」を終えた。 『勝利まであとすこし!」と言いながら、励ましあってがんばった。 けっこう疲れたわ。 しかし、間違いを三箇所ほどみつけた。 本当に侮れないのである。(だから読み合わせはとても大事) スタッフたちはまだ残ってそれぞれの仕事をしている。 来週はいよいよ季語索引の読み合わせである。 こちらも一週間はかかるだろう。 ともかくも体調をととのえておかなくては。 さて、 新刊紹介をしたい。 四六判小口折表紙ソフトカバー装グラシン卷帯あり 190頁 二句組 著者の安田徳子(やすだ・のりこ)さんは、1952年生まれ、現在は大阪・宝塚市にお住まいである。2003年、「円虹」入会、2010年「晨」入会、2015年「円虹」退会、2016年「運河」入会。「晨」「運河」同人。俳人協会会員。大阪俳人クラブ会員。 本句集は2004年から2019年までの作品を収録した第1句集であり、「晨」代表の中村雅樹氏が跋文を寄せている。 竹伐れば竹に倒れてゆきにけり よい句のよさとは、それを味わうだけですでに十分です。それについて何かを喋るというのは、本来不必要であり、また無意味なこと。そうであるからこそ、よい句というのは一見、只事の顔をしています。この句は竹林の竹を伐ったという景を詠んだものです。「竹に倒れてゆきにけり」が、只事のように見えながら非凡であると思います。わたしたちには当たり前すぎて、かえってその当たり前が当たり前として見えていないのでしょう。俳句固有の手ごわさと面白さは、一見何でもないこのような句にあるのかもしれません。 (略) 『歩く』という書名に、安田さんの思いが込められています。二〇一八年には茨木和生先生に師事され、さらなる高みへと覚悟をあらたにされました。おそらくこれからも、留まることなく一歩一歩着実に前に進んで行かれることと思います。『歩く』は一つの通過地点でしかありません。これから先どこまで歩いて行かれるのか、ついには、どのような境地に到達されるのか、「晨」の一連衆として、安田徳子さんの歩みに期待しています。 犬小屋の並びて二つあたたかし 挨拶にゆくハンカチを選びけり引き返しきて柊の花仰ぐ 話すなら炭火もつとも美しきとき 星とんで赤子に言葉らしきもの 秋の蝶ちひさくなつて止まりけり 人寄りて二月の部屋のしづかなる 一日の真ん中に会ふ秋の蝶 小春日や山より川のなつかしく 担当の文己さんの好きな句である。 挨拶にゆくハンカチを選びけり なんの挨拶にゆくのかは分からないが、ハンカチを選んでいくというのだから作者にとっては大切なおろそかには出来ない場所なのであろう。「ハンカチ」が夏の季語だ。「挨拶にゆく」というのだから、想像するにたとえば娘さんの縁談が決まってお相手の家族への挨拶とか、そんな風にも思える、と思いながら読んでいくとすぐ先に〈水澄むや婚約の指細くあり〉という句があって、ああやっぱりと。しかし、そんな散文的な憶測はどうでもよくて、この一句非常にシンプルに一つの場にのぞむ人間の心理を描ききっていると思う。ハンカチを選ぶという行為をとおして、そのやんごとなき状況を読み手に思い起こさせる一句だ。夏の一日、汗をふくのだってすこしでも美しく優美にふるまいたいもの、ハンカチもそれなりに清潔で上質なものを選んでその場に臨みたい。どんなハンカチを使うかだって、その人間の趣味や品格が問われるというもの。わたしがちょっと興味があるのは、どんなハンカチを選ばれたのかしら、スワトウのレースのハンカチかしら、ああ、それだったら申し分なし、ってわたしの世代の人間は思ってしまう。こういうときのためにスワトウのハンカチはあるっていうもの。お目にかかったことのある安田徳子さんにはお似合いだ。しかし、ここだけの話だが、わたしは持っていないの、このスワトウのレースのハンカチを。。デパートなどで、ため息をつきながら見たことはあるが、これは使うにはわたしはすこし役不足なのである。だから憧れるだけ。。 秋の蝶ちひさくなつて止まりけり この句はわたしも好きな一句である。 秋の蝶って、どこかヨロヨロとして力なく飛んでいることが多い。低空飛行をしていることもよくある。飛んでいる秋蝶をじいっと観察していた作者は、蝶がとまったときふっとその身体が小さくなって見えたのだ。それをそのまま一句にした。羽音も弱く動きも鈍くなった「秋蝶」であるからこその一句だ。「秋の蝶」の哀れさも呼び起こされる。 夏蝶となりて嫁ぎてゆきしかな この一句、とても好き。「ハンカチ」「婚約の指」の次ぎにおかれた一句なので、ああ、やはりお嬢さんのことか、って思った。嫁いでゆく娘へのすばらしい賛辞でありエールだと思う。こちらは「夏蝶」である。「夏蝶のように」じゃなく、「夏蝶となりて」というのが、とてもいい。力強くエネルギッシュで美しい一頭の夏蝶となって恐れを知らず荒波を乗り越えて羽ばたいていく娘、娘への信頼と賛美にみちている。こんな風に結婚していく娘を送り出せたら親としては最高の気持ちだろうと思う。 風鈴の少しく雨に鳴りにけり この一句も好きである。跋文で中村雅樹氏も言われているように、収められた作品は、シンプルでありながら十全にその景を語っている句が多いと思う。とてもさりげないのだけれど、その微妙な変化や趣がこちらに伝わってくる。この一句もそう。風鈴が鳴った、雨が降っていた、ということなのだけど、「雨に鳴った」ということでその場のしみじみとした静けさが伝わってくる。それも「少しく」だ。その微かな風鈴の音を作者は聞き止めたのである。風鈴の小さな音、それを聞きとめることができるくらいだから、雨もまた静かに降っているのである。味わい深い一句だと思う。わたしはこの「少しく」という措辞にぐっときたのである。仕事、仕事と言ってガサツに生きるのではなく、こんな風な一日をすごしてみたら、yamaokaももう少し、人間がグレードアップするのではないかって思うけど、きっと駄目、今日だってまた、インクをべったりとブラウスに付けてしまった。 遠い遠い日、私はひょんなことから俳句というものに出会いました。 小学四年生に進級間近のころだったと思います。いつものように遊びに出かけた空き地に友達の姿は無くぽつんといると、一人の子が自転車でやって来ました。「今日は行くところがあるんだけど、ついて来ていいよ」と言うと、どんどん走り出したのです。慌ててその子の後を追って、ペダルを漕ぎ、辿り着いたのは見知らぬ一軒の家でした。 通し土間を抜け庭に出ると四、五人の子供が何やらやっており、聞くと「ハイク」を作っているとのことでした。「ハ・イ・ク」生まれて初めて聞く言葉。どんなものか想像すらできないまま私はその日「ハイク」とやらを作ることになってしまったのです。「見たまま、見たまま」と呪文のように唱えながら指を折ったことを覚えています。何度か通ううちに外に出て、田舎道を歩いたり、寒造りを見学したり、闇汁会をしたりと、今にしてみれば、随分豊かな遊びの時間を過ごしたと思います。子供のこと故、気の向いたときだけの俳句でしたので、そんな日々も二年が過ぎると徐々に足が遠のいていきました。 私が再び俳句に出会うまで四十年もの月日が流れました。心の奥深くに潜んでいた俳句への思いが、ようやくふーうっと浮かび上がってきたのです。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 小さな頃に、「俳句体験」をしたことは、いまの安田徳子さんに多大な影響を与えたと思う。そんな体験、したくてもできるものじゃない。かつての「豊かな遊びの時間」が、いまの俳句の時間を培っていると思う。 本句集の装幀は和兎さん。 安田徳子さんには、句集作りへの大いなるこだわりがおありだった。 まず、造本は、小口折表紙のグラシン卷カバー掛けであること、 そしてテーマカラーに「赤」を使いたいということ。 タイトルは金箔押し。 (グラシンをかけているので見えにくいが) カバーをとると鮮やかな赤の表紙が現れる。 扉。 望の夜の雲はなやいで通りけり このはなやぎは名月に由来するのですが、雲のこの在りようによってかえって名月が荘厳されているかのようです。 澄んだ秋の夜の一景です。 (中村雅樹・序より) 少し押さえられた華やぎに 品が感じられ、若々しさもあり 素敵な句集をお作りいただいたと、うれしく思っております。 最初の希望の「赤」で仕上がったことも、感謝です。 ありがとうございました。 安田徳子さんから、ご丁寧なメールをいただいた。 安田さんは、結婚をされたお嬢さんが仙川にお住まいでときどきご上京される。 本来なら、ふらんす堂にもお寄りいただきたかったのだが、いまの状況下それも許されず、今回お目にかかれないまま本作りをおすすめしたのだった。 その間、仙川になんどかいらっしゃって、わたしの散歩コースをお歩きなられたというご連絡をいただいていた。 そこでセミコやセミオにも会われたということ。 嬉しいじゃないですか。 かわいいわたしの翡翠たちに会って貰えたとは。。。。! 安田徳子さま。 いつかご一緒に仙川を散歩いたしましょう。 きっと、いつか! 日向がすきな愛猫・日向子
by fragie777
| 2020-10-02 20:43
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