|
カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
9月28日(月) 旧暦8月12日
今日の毎日新聞の酒井佐忠氏による「詩歌の森」は、木村文訳/サロメーヤ・ネリス詩集『あさはやくに(ANKSTI RYTĄ)』についてだ。 タイトルは「リトアニアの詩人」 抜粋して紹介したい。 〈あさはやくに書かれた/たくさんの新しいひびきの名前。/読まれていない本をめくろう/東から西まで。〉と始まるサロメーヤ・ネリスの詩「あさはやくに」。さらにまた〈さいた すべての花が/ただひとりに。/さいた すべての花が わかいわかいわたしに。〉と、花のたとえから、たったひとりの心の若さを憧憬する詩「わかいきみに」。初めて読むリトアニアの詩人の言葉の新鮮さに接して心が洗われる。 今年2月、リトアニア語と日本語の対訳詩集『あさはやくに』(ふらんす堂)が刊行された。訳者は1993年生まれの木村文。リトアニアは北欧のバルト3国の一番南に位置する小国。ロシアとの関係など波乱の歴史があるが、木村は2017年、リトアニア政府奨学生として同国立教育大に留学。リトアニア語の美しさや文化に魅惑され、最近も同国に渡りネリス記念舘などを訪問している。(略) ネリス代表的な詩人だがリトアニアの歴史と同様に、その後の立場は複雑でもあった。だが、木村は、「時代の背景は一時忘れ、一篇一篇の詩の中のリトアニア語の息づかいや美しさを見つけてください」と熱望する。はるかな国の言語への憧れがわいてくる。 本詩集より、一篇の詩を紹介したい。 哀悼 眠りのない十二のよるが 明るいひつぎについていった。 そしてゆりの白い雪を 月明かりの中で氷でおおった。 銀いろのゆりから 炎のなみだがあふれだした。 遠くのこはくの 海を人魚たちが恋しがる。 わたしに貸しなさい、ゆりたちよ、 鳴っているなみだのしずくを。 わたしのなみだで雨がふって もう泣くことはできない。 集まった日の出すべてが わたしの十字架の上で燃え上がった。 話さないことを決めたあと、 黒の糸杉が寄りかかった。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバーフレキシブルバック装帯あり 196頁 二句組 著者の原百合子(はら・ゆりこ)さんは、昭和11年(1936)静岡県生まれ、静岡浜松市在住。加藤楸邨、原田喬、九鬼あきゑに師事。「椎葉賞」「静岡県芸術賞」「静岡県俳句文学賞」「寒雷賞」を受賞されている。「暖響」「椎」同人、現代俳句協会会員。本句集は昭和33年(1958)より昭和41年(1966)まで、そしてしばらく中断を経て平成12年(2000)から平成31年(2019)までの作品を収めた第1句集である。 紺碧の空より滝の生まれけり 俳句を詠むということは、自分と向き合うということです。自然の雄大さ、生きものの不思議、花の美しさに感動することです。生かされていることに感謝し豊かな歳を重ねたいと思います。(著者) 帯の言葉を紹介した。 原百合子さんは、楸邨、原田喬、九鬼あきゑに師事したと略歴にあるように師系は楸邨につらなる。まず加藤楸邨の主宰する「寒雷」に投句をすることからが俳句のはじまりだった。楸邨から直接の指導を受けたという人も少なくなりつつある。そういう意味では「楸邨俳句の原点にふれる」ことのできた人である。 青田に出て父の匂ひの陽を浴びる 憲法記念日風紋に声なかりけり てのひらに宇宙の重さ蝌蚪生まる 飛花落花歩幅大きくなりにけり 一瞬も永遠も旅葱刻む 担当のPさんの好きな句である。 青田に出て父の匂ひの陽を浴びる これは「父の匂ひ」が中心的テーマだ。もちろん「青田」が季語。青田の瑞瑞しい緑の色を目のまえにすると、なんとも気持ちがよいものである。青田というのをわたしが意識したのは、ここ10数年武蔵野の里山歩きをするようになってからである。「青田風」にも吹かれてみた。すがすがしい経験である。作者は、青田に出ていく、なんのために、それは父の匂いを求めてなのだ。一面の青田、太陽の日差しが照りつけるとむんとするような青田特有の匂いを発散する。その匂いのなかに父がいるのである。「父恋」だ。青田が呼び起こす父。米作りの農夫として生きた父なのだろうか。作者のなかでは、青田を背景に土の匂いも発散させながら大地にしかと立っている父がいるのだ。ところで、いまふっと思ったのだが、このように「父の匂い」を思い出にもつ人はどのくらいいるだろうか。わたしはいま目をとじて父の思い出をさぐってみた。わたしにとっての「父の匂い」とは、うーん、あるかな、すぐには思い浮かばない。いまとなりで仕事をしているスタッフのPさんに聞いてみた。「あなたにとって父の匂いってある?」「うーん」って言ってPさんはしばらく考えて、「パンの匂いかな」って言った。へえー、パンの匂いか、、それも悪くない。しかし、わたしにとって父の匂いとは。。。原百合子さんは、すばらしい父の匂いを思い出のなかに育んできた方だっと思った。羨ましい。 初蝶や一瞬といふ濃き時間 これはわたしが好きな一句である。Pさんが好きな句に〈一瞬も永遠も旅葱刻む〉があって、こちらも「一瞬」を詠んでいるが、わたしはこちらの方に心が留まった。時間に濃いとか薄いとか普段は思わないが、その年の初めて蝶をみたその瞬間の心の躍動を「一瞬といふ濃き時間」と表現したことによって、詩となった。あかるい光をまとってふいに現れた初蝶、一瞬時間がとまったように思えた、その蝶の姿は作者の心に深く食いこんできた。濃密なまでに。そしてその一瞬は「永遠」というものに触れた一瞬なんだとわたしは思う。たとえば、音楽を聴いたり、絵をみたり、人間に出あったりしてものすごく感動することがある。そういうとき、わたしは「永遠」に触れているって思っている。恋をすることも「永遠」に触れることだって、思っている。しかし、その「永遠」にふれることのできる時間はほんの一瞬である。 淋しいぞ色を極めし烏瓜 本句集のタイトルは「烏瓜」。そしてこの句集には、「烏瓜」の句がほかにも3句収録されている。「烏瓜入日の赤に負けられず」「烏瓜赤に逡巡なかりけり」「烏瓜あがり框にどさと置く」。集名をそうつけられたくらだから、きっと「烏瓜」がお好きなんだろうと思う。わたしも嫌いじゃない。秋に朱色基調とした目の覚めるような色となる。それを引っ張ってみるのが楽しい。作者の原百合子さんは、美しい色の烏瓜をつくづくと見ながら淋しいぞと呼びかける。わたしはなんどか烏瓜を掌中にしてその色を楽しんだことはあるが、「淋しいぞ」と思ったことは一度もない。しかし、この作者が烏瓜にみる寂寥感は、烏瓜を愛する作者でこその一句なのだと思う。極めたはてにある無常観や寂寥感を愛おしい烏瓜であればこそ、思ってしまうのだ。あるいは、この作者は、「時」あるいは「時間」というものへの問いかけがつねにあるのかもしれない。一瞬とはなにか、時間を経るとはどういうことか、または「もの」と「時間」との関係について、それらへの存問のなかで俳句をつくっているのかもしれない。 抽出しに昨日をしまふ夜の秋 この句も面白い一句だった。これもまた作者のなかの「時間」の感覚である。夜長の秋であれば、昨日という時間を丹念に記憶の底から取り出して、しまっておくこともないわけではないかって思ったりするけど、不思議な一句、しかし、なんとなく分かる。 俳人加藤楸邨の偉大さも、楸邨俳句についても知識のないまま「寒雷」への投句を始め、指導をしていただいたのが私の俳句作りの始まりでした。人間探究派と呼ばれた楸邨俳句の原点に触れることのできた貴重な年月でした。「俳句の中に人間の生き様を詠む、生活の中から句は生まれる」という先生の教えを胸に俳句を作ってきました。原田喬先生からは、素朴・単純・平明の精神を学びました。 長い作句中断から再び俳句の世界へと導いてくださったのが九鬼あきゑ先生です。句集『烏瓜』を先生に見ていただけないのが残念です。「椎」誌上での先生の選句を中心に三四六句を自選しました。 「あとがき」をふたたび抜粋して紹介した。 本句集の装幀は君嶋真理子さん。 色校正のときに、「烏瓜」らしい赤系とこの緑系を用意してもらった。 すると、原百合子さんは、緑系を選ばれたのだった。 それがかえって新鮮な句集『烏瓜』となった。 垢抜けたデザインである。 タイトルはツヤありの金箔。 すべて緑がテーマカラーだ。 開きのよいフレキシブルバック。 少し離れて水引草の濃くなりぬ 水引の花ってどこに焦点をむすんでいいのか、なかなかむずかしい。 あまりにも近づきすぎると目がちかちかしてくる。 この一句、ああ、確かにっておもわせる一句だ。 「濃くなりぬ」が、上手い。 時間をあやつる(?)原百合子さんならでばと思った。 秋日がまぶしい一日だった。
by fragie777
| 2020-09-28 19:36
|
Comments(1)
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ファン申請 |
||