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9月26日(土) 旧暦8月10日
国立・谷保に咲いていた鶏頭。 毎年ここに立ってこの鶏頭に向き合う。 この日、わたしは鶏頭に指をふかく差し入れてみた。 その感触を確かめたかったからである。 「鷹」10月号を送っていただいた。 編集後記に編集長の髙柳克弘さんが、今年度の「田中裕明賞」について書かれている。 その部分のみ抜粋して紹介したい。 (小川軽舟)主宰が十回まで選者を務めてきた田中裕明賞。選者がかわってはじめての第十一回の選考に、佐藤郁良、関悦史、髙田正子の各氏とともに臨んだ。オンラインによる選考会であったが、じゅうぶんに意見を述べ合って、素晴らしい句集を推せたと思う。受賞句集は、生駒大祐『水界園丁』(港の人)。この句集もまた、未来の誰かにとっての「自分にとって大事な作品」に成り得る作品だろう。 今年度の「田中裕明賞」について、授賞式、記念吟行会、お祝いの会について、正直頭を悩ましている。 受賞された生駒大祐さんの顔を日々思い浮かべながら、どうしたものかと思案している。 対コロナについて規制がゆるみつつあることは事実であるが、ふらんす堂はあくまで慎重に行きたい。 人間の命にかかわることであるとおもっている。 冊子「田中裕明賞」の制作はすすめております。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装帯あり 160頁 2句組 著者の國清辰也(くにきよ・たつや)さんは、1964年佐賀県生まれ、現在は茨城県水戸市在住。1994年「梟」に入会し、矢島渚男に師事。「梟」同人。集名の「1/fゆらぎ」は「エフぶんのいちゆらぎ」と読む。この変わったタイトル、そして収められた俳句を読む前に、読んだあとでもいいが、巻末の著者略歴に記された学歴に目を通すと、極めて優れた理数系の頭脳の持ち主であるがわかる。本句集は第1句集であり、矢島渚男主宰が跋文を寄せている。逆編年体で編まれ、2020年から1996年までの作品が収録されている。このことを跋文を書かれた矢島渚男氏は「逆年順の配列にも決意を感じさせる。」と。 この句集名はいったい何を意味しているか、まずは知りたいところである。 「あとがき」を紹介しよう。 題名の1/fゆらぎは、エフぶんのいちゆらぎと読む。fはfrequencyの略で周波数を意味する。万物は固有の周波数を持っており、それらには微かなゆらぎがある。1/fゆらぎは、微かな変化のうち、人間に安らぎを与えるリズムに相当する。例えば、人の歩行、心拍、脳波、波、ビッグバンの残照として届く電波等の自然現象に広く観測されている。 俳句に微かなゆらぎをおもいみることがあり、また字面が面白いので、本句集所収作品中の一句、 万物に1 / f ゆらぎ秋 から採って題名とした。 そういうものなのか。。とわたしなど目を瞠るばかりである。計り知れない領域だが、万物に「微かなゆらぎ」があると思うと、世界がまた別の様相を呈してくるようで悪くない。 矢島渚男主宰の跋文を紹介したい。 簡潔なものであるが、充分に意を得たものだ。 秋のいろぬかみそつぼもなかりけり という句が芭蕉にある。元禄四年晩年の作とされる句である。糠味噌壺もない晩年の暮らしに配された「秋のいろ」。この「いろ」は秋の色彩と解してもよいが、「物事の表面に現れて人に何かを感じさせるもの」という意味として、けはい・兆しの意味としてよいだろう。この秋のけはいを現代物理学を学んだ國清辰也は周波数の揺らぎとして、 万物に1 / f ゆらぎ秋 と表現した(1/fはエフぶんの1と読む)。果敢な試みと言って良い。 芭蕉の俳句と、國清さんの俳句を響きあわせるとはさすがの矢島渚男氏である。 万物に1 / f ゆらぎ秋 鶯や空気ますます新しく戦火遠く電気毛布を調節す 馬の尻てらりてらりと栗の花 夏痩せて舌いちまいの重さかな 担当のPさんが好きな句である。 夏痩せて舌いちまいの重さかな この句はわたしも面白いとおもった一句だ。本句集を読んでいくと、重さや距離(時間的、空間的)などを意識させる句がある。作者はそういうことに極めて敏感なのかもしれない。舌に重さがあるとは日常的にはほとんど意識したことがない。いまだってわたしの舌は口の中できわめて軽快に位置している。重さがあるのだろうかっていま舌先を動かしてみたが、闊達によくうごきまず重さは感じない。しかし、夏痩せとなってしまった。こうなると頬もこけ、口を開くのも億劫になってくる。地球の重力に舌が引っ張られていくような辛さである。「舌いちまいの重さ」が極めてリアルになって説得力をもった句となった。ほかに「たましひはふぐりのあたり雪催」という句があって、「たましひ」に重さがあって「ふぐり」のあたりで留まっているというのがおもしろくきわめて俳諧的。 馬の尻てらりてらりと栗の花 「夏痩せて」の句も初期の句であるが、こちらも作者初期の句である。この句は、「栗の花」の季語がよく合っていると思った。厩舎の近くに栗の木が植えてあって、栗の花が咲いている。夏の暑い時期のことだ。むんとむせ返るような厩舎に馬たちがいる。その馬の尻が強い光線に照らしだされて光っている。「り」音の繰り返しがリズミカルで調子よく、読み手の心に気持ちよい波動をおこす。 人体は味はひ深し黴にほふ これは前半にある句で2018年のもの。「黴にほふ」で面白い一句とみたが、考えてみると「人体は味はひ深し」という措辞は、観念ではわかるような気がするが、いったいどういうことだろうかとはたと思ってしまった。たとえば人体というものを研究していけばその創造物としての素晴らしさに感銘をうける、などということは聞くが、そんな通り一遍のことか。あるいは夏の夕暮れに、わが腕をこう持ち上げてみてぐるんぐるんと回して、なんとよく出来ていることか、と思ったり、鏡のなかの顔をながめて目鼻立ちの造作とその働きに感銘したり、蚊にさされたところから微かに滲む血の色になにゆえ血は赤いのだろうかと疑問におもったり、しかし、これはまだまだ初心者の域を出ないような気がする。國清さんという作者は、万物にかすかな揺らぎを見出すことのできる方なので、きっと人体への味わいの仕方はさらに複雑にして繊細なのかもしれない。この句、「黴にほふ」で俄然、人体への夢想は現実に引き戻されてしまう。「黴」もまた生き物であり、「黴にほふ」としたことでこの一句に複雑な味わいを与えた。 何もせぬ手を洗ひをり春の暮 この一句も不思議な一句だ。重力を感じる一句である。手の重たさをとおして、心の重たい春の夕暮れをおもった。「何もせぬ」と言ったって何かはしただろうとは思うが、多分「役立つことのない無為の手」と作者には思われたのだろうか。だらりと無駄に垂れ下がった手。それを洗っている。水も重たく、暮れてゆく気配も肩に重たい。春愁であるが、それを肉体の一部をとおして実感しているのだ。「春の暮」であるからこその一句だ。 一九九六年から二〇二〇年早春までの作品から二百七十句ほど集めた。初めての句集である。所載の句のほとんどは、俳誌「梟」に掲載された句である。 矢島渚男先生には御選と跋文を戴くことができた。頭を垂れるのみである。 ふたたび「あとがき」を紹介した。 本句集の装幀は、君嶋真理子さん。 素敵であるがなかなかむずかしい集名を君嶋さんらしくデザインした。 題字はツヤ消し金箔。 表紙は落ち着いたなんど色ともよぶべき青。 知的な青だ。 扉。 花布も栞紐も表紙と同じ色に。 岩盤に楔一列日の永き 永い試行錯誤が漸く結実をはじめたかに思われ、これからに大いに期待をいだかせる。型にはまらず新しい視点を持った楽しみな作者である。(序・矢島渚男) 秋の声別の自分にすれ違ふ 今日仕事場にくるとき、ふっとこんな感覚をもった。「秋の空」でもなく、「秋の暮」でもなく、「秋の声」で自分のなかにある「違和」のようなものが呼びおこされる一句である。
by fragie777
| 2020-09-26 17:51
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