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9月23日(水) 雷乃収声(かみなりすなわちこえをおさむ) 旧暦8月7日
国立・城山の露草。 肌寒い朝となった。 起きてしばらくすると喉がすこしいがらっぽい。 わたしはさっそくイソジンでうがいをした。 (このままだと風邪をひくな……) ということで、ワイシャツの上に短めの黒のベストをはおった。 さらに、風邪の症状は出ていないのだが、葛根湯を飲むことにした。 いまの状況で風邪でもひいたらそれはたいへんである。 自己管理、自己管理、ということである。 今朝のミーティングでは、スタッフたちに「気をつけて、風邪をひかないようにしましょう」と呼びかけたのだった。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装帯あり。212頁 二句組 著者の甲斐のぞみ(かい・のぞみ)さんは、1973(昭和48)静岡富士宮市生まれ、現在は山口県下関市に住む。1994(平成6)年「百鳥」創刊と同時に俳句をはじめ、2001(平成9)年第7回百鳥賞を受賞。「百鳥」同人、俳人協会会員。本句集は20歳で俳句をはじめてより2019年までの25年間の作品350句を収録した第1句集である。序文を太田土男氏が、跋文を森賀まり氏が寄せている。 甲斐遊糸・ゆき子夫妻はご両親で「百鳥」同人、青池亘さんはご夫君でやはり「百鳥」同人、俳句一家である。 序文をすこし紹介したい。 つつじ燃ゆ空を飛びたく思へる日 白靴を履き太陽の子となれり てふてふの火の山越えてゆきにけり 何にでもなれさうな木や天高し 森抜けてみづうみに着く月夜かな 甲斐のぞみの『絵本の山』は満二十歳から始まる。五句は、冒頭近くから抜いた。嘗て、甲斐のぞみはこんなことを書いたことがある。「中学生のとき、家の床の間に飾ってあった〈あをあをと空を残して蝶別れ 林火〉という色紙をみて、私の目の前にその光景が広がった。〈俳句って詩なんだ〉と初めて思った瞬間だった」(「俳句文学館」平成三十一年一月)と。この瑞々しい抒情、その出自は自ずから明らかである。特に三句目、どこか大野林火の蝶の句と重なる。林火の句は甲斐のぞみの軀をくぐり抜け、斯く新しい一句に昇華したように思えてならない。 という書き出しで序文ははじまり、 先に上げた「俳句文学館」の記事で、自分の「場」に立つことを大事にしてゆきたいとも書いている。この考え方は、嘗て大野林火が「濱」誌上で、〈作家と場〉ということで論じた。林火は詠うべき場をみずから課していない、曖昧さの中に句作が続けられると技術だけが達者になるとして、これを戒めている。甲斐のぞみにとっては、教職と子育てが場である。これに執することで、俳句もそして人として進むべき道も見えてくる。そのことを自覚して、実践しているのである。 (略) こう書いてきて、思いつくのは、臼田亞浪の「まことの俳句」である。亞浪は林火に繫がる。そして、大串章に繫がる。ここまで触れずに来たが、「あをあをと空を残して蝶別れ」を飾っていた人こそ、父母で俳人の甲斐遊糸・ゆき子夫妻である。 太田土男氏は、師系をふまえながら甲斐のぞみさんとその作品について論じている。 跋文の森賀まりさんは、「百鳥」で共に学びつつある先輩としてあたたかな眼差しで繊細に甲斐さんの作品に向き合っている。 秋澄みて宣誓のまつすぐな腕 拙文の終わりに、この若い頃の一句を掲げたい。ひんやりと澄みきった朝の大気。整列を離れて、宣誓の一人が歩み出る。静まりのなかひとつ息を吸い、それから目の前の空へ向かって宣誓をする。教え子の一人だろうか。場面があざやかに映像化されると同時に、この句の清々しさは、読み手のそれぞれの記憶を呼び覚まし響きあう。その起点となるくっきりと迷いのない世界。それは、私がこの作者に一貫して感じる純一さそのものだ。 本句集について、「学生時代を終え、故郷を離れて教師という職に就き、結婚し、子どもを育てる。この一冊はまさに、そうした人生の重要な変化の時期をすっぽり含んでいる。まだ四十代半ばであるが、俳歴は十分だ。」と森賀まりさん。 透き通るようなリリシズムに貫かれた句集である。 卒業旅行春満月がついて来る 夏山にぶつかつて雲散らばれりマフラーをきれいに巻きて出発す 四十人のつむじを見つむ大試験 灯台の絵ばかり描いて夏終はる 何にでもなれさうな木や天高し 卒業や校歌の海を見て帰る これは担当の文己さんが好きな句である。 ちなみに校正のみおさんは、「一頭の馬を飼ひたる冬野かな」が好きということ。 卒業や校歌の海を見て帰る 「海なし県で育ったので、「校歌の海」の景がとてもいいなぁと思いました。」と文己さん。文己さんは栃木県出身、たしかに海はない。というyamaokaも埼玉県秩父なのでまるで山っ子である。小学校から大学まで、校歌に海の文字がはいったのは一度もなかった。文己さんと同じように私にも海への憧れがある。美味しいお魚は小さい頃食べたことがなかった。海辺でそだったらこんな内向的(笑うな)にならず、もっと積極的で恐れを知らない大胆な人間になっていたのではないか、ああ、海よ。。。なんて、まあそんな安易なことではないが、やはり「校歌の海」は羨ましい。この句、卒業生が海を見ながらその校歌を胸の中で反復している様子がみえてくる。二度はない一度きりのすばらしくいい時間だ。 四十人のつむじを見つむ大試験 学校の先生をしておられる甲斐のぞみさんであるので、教師の現場からの俳句もたくさん収録されている。この句もその一つである。まさにこれは現場の一句だ。「見つめ」ではなく「見つむ」としたことによって、生徒のみならず、先生の気合いと緊張感が伝わって来る。誰も顔をあげようとせずに必死に試験問題にとりくんでいる様子を「つむじ」で見事に表現した一句だとおもう。 手袋のなか大切な指輪あり 祝婚の春手袋をとり握手 手袋をとりて絵本を選びけり 手話終へし手を手袋にをさめけり 集中に「手袋」の句が四句ある。こうしてあげてみると、「手袋」は甲斐のぞみさんにとって特別な意味をもつように思える。それは、防寒のみならず、「こころを改めるもの」とでも言ったらいいのだろうか。手袋をしたり、とったりすることで心のスイッチを変えるというか、そういう意味のあるもののように思えるのだ。わたしは、四句目の「手話終へし」の句がとくに好きである。会話のために充分に働いた手を疲れを癒やしてあげるように手袋にいれる。この「をさめけり」という措辞が、労働をした手への作者の恭しい心を表しているようだ。手のみだけでなく、きっと手袋も大切にされている甲斐のぞみさんだろうって思う。 句集を編むにあたって、今までの自分の軌跡を振り返ることは、気恥ずかしく、怖いことでもありましたが、それと同時に初めて自分の生き方を肯定することができました。自分にはいつも、俳句という表現方法があり、俳句を作ることで、無意識のうちに自分の心を整理し、前に進んできたのだとわかりました。 俳句と向き合っている時間は、とても謙虚な気持ちになります。雄大な自然の中、四季とともに生きてきた人間のささやかな営みがいとおしく感じられます。百年前も百年後も私はこの世にはいないのだと実感します。そして、自分の表現したいものは、自分という器よりも大きいものは出てこないということに気付きます。だから自分が大きく、強く、優しく、豊かになるしかないのです。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 本句集の装幀は、君嶋真理子さん。 本作りへのこだわりがある甲斐のぞみさん、ご希望をいろいろとおしゃってくださった。 タイトルの「絵本の山」というイメージをうまく活かした一冊になったのではないか。 装画は青のメタル箔で。 裏側へも箔押しの装画はのびている。 表紙のクロスは、箔押しの青とおなじ色のもの。 今日の写真の露草の色でもある。 甲斐のぞみさんの心の奥にある故郷静岡の海、そしていま住んでおられる山口・下関の海へのオマージュとして。 すこしわかりにくいのだが、タイトルなど文字をカバーに用いた青メタル箔であえて押した。 出来上がりはどうだろうかと心配したのだが、金箔などをつかうよりも個性的な仕上がりとなり成功だ。(これはわたしの発案だったので嬉しい) 扉。 黄色を差し色に。 春の夜の絵本の山を崩し読む やや離れて母が絵本を楽しむ子たちを見やっている趣がある。その情趣を「春の夜」がやさしく包み込む。子たちを詠む時、膝を折って子どもの目線になっている。(太田土男・序) 近影写真をおくっていただいた。 甲斐のぞみさん 句集を出そうと思って、 ふらんす堂さんに最初にお願いした時が年末でしたので、 まさかこのようなコロナ禍は想像もしていませんでした。 社会状況の急変のなかでも、 俳句を作っていると、自然の移り変わりは普遍であると気づき、 見通しの立たない毎日にあっても、 ささやかながら勇気をもらうことができました。 1冊の本を作り上げていくお仕事、 希望あふれる素敵なお仕事ですね。 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 このようなメッセージをいただいた。 甲斐のぞみさま。 こちらこそよろしくお願いいたします。
by fragie777
| 2020-09-23 19:52
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