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9月15日(火) 京都石清水祭 旧暦7月28日
午後より出社。 あるいて仕事場に向かうとき、地上10メートルくらいの高さより垂れ下がって咲く葛の花をみあげた。 鶺鴒が水辺をあるいていた。 とても可憐。 鴨と鶺鴒。 今日の毎日新聞の「詩歌の森へ」酒井佐忠氏が田中裕明賞について取り上げてくださった。タイトルは「今年の田中裕明賞」、抜粋となるが紹介したい。 今年の第11回田中裕明賞(ふらんす堂主催)が、生駒大祐句集『水界園丁』(港の人刊)に決まった。22歳で角川賞をとり、詩性あふれた青年俳人として活躍しながら早世した田中裕明を顕彰し、未来を担う俳人を見出す賞である。今年から選考委員が、佐藤郁良、関悦史、髙柳克弘、髙田正子の4人のメンバーとなり注目されていたが、コロナ禍のため例にもれず、リモートによる選考委員会になった。 『水界園丁』は、伝統的な四季別の構成をとりながら、現代の「新しみ」を体感させる創造的な句集である。〈よぎるものなきはつふゆの絵一枚〉、〈天の川星踏みならしつつ渡る〉など美的で抒情性に満ちた句。その一方で、〈言葉冷たし草にかむさる雪よりも〉のように、「言葉」の真実性への違和感など、現代の危うい感覚をとらえている句も目立つ。「感覚的で不思議な実感」(佐藤)、「美意識と独自の新しみが魅力」(髙柳)などの評価も納得できる。 生駒は1987年三重県生まれ、俳誌「天為」などに所属したが現在、無所属。(略)「俳句を書き、俳句を論じることで、俳句に貢献したい」と生駒はいう。 「ふらんす堂通信166号」にて、「田中裕明賞の受賞特集」をします。 今年はかくなる状況によって受賞者の生駒大祐さんにもお目にかかれないかもしれない。 先日、青土社より『加藤楸邨全句集』が刊行されたのとほぼ時をおなじくしての刊行となった。 令和という時代をむかえたわたしたちは、厳しい生活環境のなかにおかれている。そうそう安穏とは生きられない時代となった。 楸邨は、戦争体験者であり戦後の厳しい時代をいきぬいた俳人である。楸邨の句にあらためて接してみると、その作品の底をながれる怒り、淋しさ、哀しみなどが読み手の心の底にしんしんとおりてくる、そんな思いにさせられる。 北大路翼さんは、楸邨にどのように向き合い、どんな風に読んだか。興味ふかいところである。 すこし紹介したい。 年枯れゆけばおのれ光りぬ冬木みな 『寒雷』昭和10~12年 枯れて枝だけになつた冬木は、葉がない分、却つて日差しを浴びやすくなつて光つてゐる。この光は想像の光ではなく、実際の冬陽だ。枯木を明るくしてやらうと、頭の中で日差しをあつらへることはできるかも知れないが、この光のリアリティがスゴイ。下手に真似をしようとするとただの嫌味な句になつてしまふ。楸邨の句は一見観念的で、マイナスイメージを無理矢理プラスに転化してゐるやうに見えるが、どの句にも先入観にとらはれないナマの実感が優先されてゐる。「みな」のくどさはご愛嬌。 月さして獣のごとく靴ならぶ 『山脈』昭和25年 躍動感のある獣の比喩が面白い。靴は脱ぎ散らかされてゐるのではなく、いまにも獲物に飛びかからんとしてゐるのだ。月明りも薄暗い玄関にぴつたり。現代の小さな玄関ではなく、土間のやうな大きな玄関だらう。土の上に潜む獣=靴が満月を浴びて目を覚ます。なかなかドラマチックなイメージである。ちなみに靴は心理学的には女性器の象徴だ。楸邨は嫌がるだらうが、満月の日に「女」が目覚めるといふところまで僕は読みたい。 おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ 『吹越』 昭和48年 楸邨には、自らの内からの人間的要請が作句の根本にあつた。人間的要請とは簡単に言へばどう生きるかと問ふことだ。この句は、そんな楸邨の作句態度がそのまま句になつてゐると思つてもよいだらう。自らの内へ内へ思ひを求めていく窮極には、ただの物体、かたまりになつた思念だけが残る。おぼろ夜のぼんやりとした淡い淡い空気の中で、輪郭はわからずともそこに存在する確かな意思、思ひ。思ふことが私を私ならしめてくれるといふこと。 巻末にある楸邨論のタイトルは、「難解だとは言ふけれど」。 楸邨の句は難解だと言はれることが多い。 僕は初学の頃から「寒雷」系の先輩方の話を聞いて育つたおかげもあり、楸邨の句がわかりづらいと思つたことがほとんどない。今回、解説を書くにあたり、その思ひがますます強くなつてゐる。わざと恣意的な解説を付した句もあるが、句の内容については、さほど外れてはゐないはずだ。 難解さとは句意のわかりづらさではない。いはゆる俳句的情緒、俳句的手法からの距離感が難解だと呼ばれてしまふ。 という書き出しではじまり、楸邨の句がどうして「難解」であると言われてしまうのか、そのことについて言及していこうというもの。北大路さんは、例句をあげながら、楸邨の句が難解といわれる所以をさぐる。 北大路さんが、楸邨という俳人のどこに惹かれているのか、それはこの一冊を読むことによっておのずと明らかになるであろう。 わたしは楸邨の句では、すこし前にこのブログで書いたように、 夾竹桃しんかんたるに人をにくむ がとりわけ好きである。 しかし、この一冊をとおして、おなじくらい好きになった句がある。 それは、 金蠅のごとくに生きて何を言ふ 自分にむかって言ってみたい一句だ。 つまり「自分つっこみの一句」として気にいった。 北大路さんはどんな解説をしていたかなあ、 ふむふむ、 どうやら金蠅は、かなり忌み嫌われているようだ。 本書を通して、自分の好きな楸邨の一句、をみつけてみるのもいい。 どの句が好きかが、自己発見につながっていく。 わたしの「金蠅」のように、、、ね。 ![]()
by fragie777
| 2020-09-15 19:15
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