カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
9月13日(日) 旧暦7月26日
今日の朝顔。 地を這うようにして咲いているのもあった。 今日の朝日新聞の「うたをよむ」で抜井諒一さんが、「清新の句集」として3冊の句集をとりあげて評している。タイトルは「日常に潜む新鮮さ」。 3冊は中西夕紀句集『くれなゐ』、小島健句集『山河健在』、そしてふらんす堂より刊行された篠崎央子句集『火の貌』である。 抜粋して紹介したい。 金魚百屑と書かれて泳ぎをり 中西夕紀 青蜥蜴石を冷たくしてゐたり 小島 健 福寿草金魚の墓に群れてをり 篠崎央子 篠崎央子氏の『火の貌」より一句。同じ金魚でもこちらは人間に大切にされてきた。庭先にある小さな墓であろうか。群れ咲く福寿草と新年のやわらかな日差しが、金魚の墓に心に、寄り添っている。 先日、後藤比奈夫著『俳句初学作法』について、このブログでも紹介し、多くの方より注文がありうれしく思っている。 全部で87の項目があってそれについて例句を引用しながら、懇切に解説をほどこしてあるのだが、13の「非情な句」という箇所をわたしは面白く読んだ。 流燈に下りくる霧の見ゆるかな 素十 水に置けば浪たゝみ来る燈籠かな 虚子 虚子編歳時記の「流燈」に項にある句で、二句ともよく知られた句である。 後藤比奈夫氏は、「非情な句」を解説するにあたって参考になる句として取り上げている。 そしてこの二つをくらべて、片方の句のほうがより「非情」であるとしているのだ。 ええっ。どちらがより非情なんだろうってしばし、思った。 一見、どちらも客観写生句だよなあ、どこがちがうのだろうか、って 凡庸なyamaokaにはとっさには判断つきかねた。 そりゃあ、作者を通して推測するっていう手もある。 しかし、こう並べてみるとその非情さの違いをどう考え、説明するのよって思う。 あなたはどう思います。 わかります? 比奈夫先生は、こう説明をしている。 この二つの作品を読み較べて感ずることは、同じように客観的に描写されておりながらも、前句の方がより非情であるということである。燈籠に霧が下りるということと、浪がたたむということとは、趣と景色とはやや異なるけれども、素材としてそれほど本質的な違いがない。にもかかわらず、後句では作者の燈籠に寄せる心持が何となく句の表面に漂うのに反して、前句では流燈は作者の心から遠くつき放された感じがする。本当は流燈にも霧にも、作者の心は強く動いているのであるが、それが句の表面では、憎々しいまでに突き放されて、それ自身あるがままの姿に放り出されているのである。どちらの行き方がよろしいかは論外であるが、主観的色彩の濃い作家からは、情緒的な作品が生れるのであろうし、客観的色彩の濃い作家からは、非情な句が生れるのであろう。 俳句は素材の把握の裏に、しっかりと作者の主観がひそんでおれば、非情なまでに客観描写に徹することによって、かえって作品を純粋に高度なものとすることが出来る。思わせぶりな嫌みというものが全然影を消して、ただ沈潜した面白さが見出せる。 面白い。 どちらがいいということではないのだが、非情さ、ということにおいて、素十に軍配をあげている。 もうこうなったら自身はどういう方向性を目指すか、ということになる。 わたしがここで注目したのは、客観写生ということ一つとっても、これほど微妙な違いがあるということである。 そして、その微妙なる差異を本著は明らかにしているということだ。 客観写生、侮りがたしである。 このようにして本著『俳句初学作法』は作句についてきわめて繊細なことにまで言及しているのだ。 そんなこと言って、yamaoka、この本を買わせようとしてるんでしょ。 って思ったあなた、 まさに正解です。 この微妙な機微を感じ入った俳人であったら是非にお買いなさいませ。 と、わたしは申し上げたい。 本著は、俳句を作るうえでのまことに繊細な部分についての嫌味のない懇切な指針に満ちたものなのである。 あーあ、こんな風に書くと、またまた営業熱心なyamaokaさん、って思われちゃうようなあ、って思うけど、かまやしないわ。 比奈夫先生のはったりのない誠実な「俳句入門」であり、それは初学者にとどまらず、俳句をつくるものが耳を傾けてもよい優れた示唆に富んでいるものなのである。 文章そのものも上等である。 俳句入門にある、こうすれば上手になりますよ的な、近視眼的な方法論ではなく、もう少し1+1=2プラスα 的な示唆に富んだもの。 短兵急に答えを求めるのではなく、俳句というものの深遠さに開眼させるもの、それこそ本当の素晴らしい俳句入門書ではないかって、私は思うのである。 自己否定の繰り返しによって俳句というものにより近づく そのくらい俳句って侮れないものだと思う。 そういうことに気づかさせるのが、本来の入門書なんじゃないかって私は思うのだけれど、変かな……。 今日も許された時間に、仙川沿いを歩く。 そして、出会ったカワセミたち。 セミオくん。 セミコちゃん こちらはセミチビかも。 今日は仙川につくやいなや、すぐさまカワセミが目に飛び込んできた。 そして 次々と カワセミの姿が、 セミオくん! セミコちゃん! セミチビ! って声をかける間もなく、 彼らはわたしの目のまえを行き来した。 その結果、 ひょっとして、別の個体が(!?)がいるかもしれないっていうことを発見したのだった。 二対が目の前を通り過ぎって下流を目指したかと思うと、別の二対が上流から現れたのだった。 〇◆×△#&*…… いったいどういうこと!? わたしは面食らった。 セミオとは違うオスのカワセミがいるような、、、、 ひょっとして仙川はカワセミの繁殖地として絶好の場所なのかもしれない、。。 ともかくyamaokaは???という境地です。 わたしのセミコちゃーん、セミオくーん、セミチビ、 だけじゃないかも。。。 家に帰って書棚にある荒俣宏著の『世界大動物図鑑』の4「鳥類」で開いて調べてみた。 この書物は面白いのだが、あまりにも収録されているイラストがリアルで怖いのである。 だから敬遠していたのだが、今日開いてみてわかったことは、さまざまな面白いことである。 翡翠に関しては「鳥交る」は、春ではなくて、冬であるということ。 それによると、 カワセミの交尾は冬至のころ産卵する。そこで古代ギリシアでは冬至の前後7日間ずつを〈カワセミの日〉とよんだ、シモニデスは(ギリシアの詩人、記憶術の開祖といわれる)は次のように歌っている。 ゼウスの神冬月の14日を静め給えば、 地上の人びととその日々を〈なぎの季節〉、 目もあやなカワセミの子育ての〈聖き季節〉とよぶこと。 以上の伝承はすでにアリストテレスも《動物学》で記述しているが、プリニウスの《博物誌》には、より総合的なカワセミ神話が語られている。(略)日本でもカワセミの美しさは古代から注目されていた。たとえば緑色(みどりいろ)という言葉は翡翠の色、すなわち翠鳥色(そみどりいろ)を略したものとされている。《古事記》には、天若日子((あめのわかひこ)の葬送のさい、カワセミが御家人(みけびと)(死者に供える御饌を掌(つかさどる人)になったとある。やはりこの鳥が鎮めの役を担っていたようだ。(略) これはホンの一部を紹介したが、カワセミの文化人類学的役割は多岐にわたっているようである。 古事記にまで登場するとは、恐れ入った次第である。 ヒトもトリも長い時間をかけてその歴史を生きてきたのである。 しかし、 4羽のカワセミを一挙に見たことは、 衝撃であった。 これからじっくり付き合っていこうと思っている。。。
by fragie777
| 2020-09-13 22:28
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||