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9月11日(金) 旧暦7月24日
今日の空。 昼頃駐車場より見上げる。 空が動いでいる。。。。 そしてわたしはなんの脈絡もなく、 ミケランジェロの「天地創造」を思い浮かべたのだった。 かつて一度だけバチカン市国のシスティーナ礼拝堂で本物を見たことがある。 首がいたくなるぼど見上げる絵画である。 今日のこの空に、あの指と指が触れ合いそうになる場面(父なる神がアダムに息を吹き込む)が何度も繰り返し現れたのだった。 たしか、あの絵には空や雲などあまりに無かったようにも思えるのだが。。。 新刊紹介をしたい。 B6判横とじ小口折表紙 80頁 五句組 俳人・秦夕美(はた・ゆみ)さんの17番目の句集となる。17番目とはなんともエネルギッシュな句集の数である。そのどの句集をとっても秦夕美という人の美意識と遊び心があってその本を手にとる人の気持ちを豊かな気持ちにさせてくれるものだ。秦さんは「ことば」が大好きな人である。とくに「詩歌」のことばを軸にして、ご自身の世界を構築してきた人である。だからその身体には豊潤な詩歌のことばがびっしりとつまっていて、それらが無理なく秦さんの身体から紡ぎ出されてくるのである。わたしは時として、秦夕美という人は、ことばを食べて暮らしているのではないかって思うことがある。それこそ、ご飯をたべるようにおいしいおいしいと闊達に食べる。ことばを食べることが楽しくて楽しくて仕方がない。 なかなか稀有な人である。 しかし、持ち前の育ちの良さからか、そういうご自身をゆったりと楽しんでいて、けっしてお仕着せがましいところがない。いいのよ、わたしが楽しいのだからと言って泰然自若としている。 世の中がどんどん世知辛くなっていく現在、ある意味絶滅危惧種であるかもしれないなって、わたしはひそかに思っているのだ。 だから、句集をつくるときもご自身の思いどおりにされる。 ことばで遊び、造型で遊ぶ。 ということで、また楽しい句集をつくらせていただいた。 句集『さよならさんかく』。 あとがきにはこんな風にある。 もう句集は出さないときめていたので、ふらんす堂の現代俳句文庫に参加した。その後は「GA」の書下ろしだけが残っていけばいい。選句や校正、発送などの手間が面倒だ。それがふと、仮名ばかりの題名の句集をもっていないことに気づいた。総合誌や句会での俳句は、一句も同じものを出さないから、『五情』後、二千句以上がある。教室を減らしたので時間もある。あれこれ考えているうちに「さよならさんかく」という言葉が浮かんだ。本の形は柩に似せて横長。目次は四季でも年代順でもつまらないから、「あさ」「ひる」「ゆふ」「よは」と一日の時間軸にする。と、半日で決め、ふらんす堂さんにメールを入れておいた。あとは体力、すぐ疲れるので、用心しながら作業をすすめ、何とか恰好をつけた。 「あとがき」を読むと、もうこれで最後の句集にしようかと、「さよならさんかく」と名付け、柩のように横長にとある。 発想がおもしろい。 しかも、編集もふるっている。一日の時間軸で「あさ」「ひる」「ゆふ」「よは」の区切り。 その「あさ」のなかに四季が経めぐるので、通常の句集をよむのとは違う感じで脳細胞が刺激をうける、そんな感じだ。 「わたしがね、あさらしいと思う句をいれたのよ、なんとなく」と秦さん。 あくまでもご自身の遊びであるので、それをどう他者がとらえるかは二の次。 一緒になって遊んでくれればベスト、しかし、理解されないならそれでもよろしい、そういう方だ、秦夕美さんは。 では、わたしの好きな句をひろっていこう。 たくさんあるけれど、ここはそのいくつかを。 黒いチューリップ見に公爵の馬借りむ 「あさ」 魂はかるくてぢやうぶ玉簾 〃 仮の世の大気たふとし葉鶏頭 〃 しぐれつゝニーチェ神にはあと十歩 〃 貴種流離譚おかはりの雑煮椀 〃 山茶花の白とや齢つまらなく 〃 見ず聞かず信ず来世の雪の椅子 〃 どうしてこれが「あさ」なのか、と思った方は秦さんに是非に聞いてほしい。 作品の底には批評性もあり、それは培われた教養ならではのものだ。 黒いチューリップ見に公爵の馬借りむ これはミーハーyamaokaゆえのすきな一句だ。「黒いチューリップ」ときたらあの20世紀を代表するフランスのイケメン俳優アラン・ドロンの映画を思い出す。わたしは実は見ていない、小学校の行き帰りにポスターで何度もみた。その頃のアラン・ドロンはシャープなイケメンだった。その後でたくさんのドロン映画をみたが、野望を秘めた青年がよく似合った。「太陽がいっぱい」はその甘いく悲しい音楽とともに特に好きな映画だ。秦さんは、この句についてアラン・ドロンから発想していないかもしれない、もうすこし上質な趣味をお持ちのような気がする。リラダン侯爵のことでも頭の隅に置いていたかも。どうであれ、華麗な物語が展開していきそうだ、しかし、これが「あさ」か、ああ、でもあさに馬をはしらせるのは確かに一番気持ちがいいかもしれない。 ひとごとの柩がとほる著莪の花 「ひる」 黄泉に咲くあやめ命令などせぬが 〃 生も死も多様がよろし蓼の花 〃 死者係御中こちら花八手 〃 あなかしこ波斯(ペルシャ)じゆうたんとばぬなり 〃 今世の余罪やいかに花木槿 「ゆふ」 我輩は石垣島のねこじやらし 〃 夏やせて猫よぎりゆく草の波 〃 お迎へがきたか微風のさるすべり 〃 雲水もゆけり邪気邪気かきごほり 〃 聖夜かな大言海の厚さかな 「よは」 狼ロボそれでもまちがつてはゐない 〃 俎をいでゆく音や春の闇 〃 うまさうな赤子に霧のしづくかな 〃 聖夜かな大言海の厚さかな これってどういう意味なんだろうか。と最初とまどった。景はうかぶ。クリスマスの夜、大言海の厚い辞書がおかれていて、「なんという辞書の厚さであることよ」と詠んだ一句か。聖夜とは、救い主神の子イエスが地上に生まれた祝福にみちた日を祝う日である。神の恵みが地上に充ちているそんな一夜とも。秦さんにとって聖夜がいかなる意味を持っているかは定かではないが、「聖夜かな」と「大言海の厚さかな」と「かな」を多用して、「聖夜」と「大言海の厚さ」と対峙させている。そのくらい、秦さんにとっては、「大言海の厚さ」は意味があり、あえていえば尊いものなのかもしれないとおもった。なにしろ「ことば」を栄養にしている人だから。この一句「大言海」が象徴するところの「言葉の海」に、創造主の聖なる光が注ぎ込まれている。わたしにはそんな風にも読める。 見開き十句には同じ漢字を出来るだけ使わないよう気を付けたから、歳時記的には少しずれが生じる。だが、自分の美意識を優先した。ふと、ブリタニカで面白い言葉に出会った。「他界観」「離人症」人との違和感に悩みつつ、自らの感覚に拘り続けてきたが、これだ! と答えが分かったようで、すこし安心した。宿題を抱えたままあの世に行かずにすむ。 ふたたび「あとがき」より紹介した。 本句集には、死のイメージが濃厚に支配しているが、それは決して暗いものではない。死を充分に意識しながら、生と死のあはいを楽しんでいる風情である。だから読み手も作者のこころの波動にゆったりと揺られながら本句集を詠みすすむことができる。時にはクスリって笑ったりもして。 さて、柩の形にときぼうされた一冊は、君嶋真理子さんの装幀によって出来上がった。 君嶋さんの装幀を秦さんはとくに気にいっておられる。 「横長のものを」と秦さんに言われたとき、わたしは小口折でいこうって決めた。そして小口を長くして、もらい、見返しは派手にと。 秦さんはお任せするわ、と。 シンプルな造本であるが、横長ゆえに製本屋さん泣かせであったらしい。 「たいへんでしたよ」と言われてしまった。 色は秦夕美さんのお好きな濃いピンクを基調とした。 「またきてしかく」はないだろう。」と「あとがき」に書く秦さんであるが、面白いエピソードを伺った。 この本が出来上がって、息子さんのおつれ合いに見せたところ、 「あら地味!! おかあさまの本にしては」って言われたと秦さんが電話口で笑いながらおっしゃる。 「あれー、そうですか」とわたし。 「いいのよ、わたしは上品で気に入っているのだから」と秦さん。 「でも、たしかにわたしの本にしては地味かもね……」と笑っておられる。 「じゃ、こうしましょう。さらにもう一冊、今度はドハデな本をつくりましょう」とわたし。(やるじゃん、yわたし…、でも心底そう思っている) 「ほほほほ…、作品はあるのよ、体力がね」と言う秦さんはまんざらではなそうだった。 ああ、秦さんのドハデな本、作ってみたい!! 永久に白昭和の夏の一頁 「よは」のなかの一句である。 以下余談。 帰ろうとしているスタッフのPさんに、 「ねえ、この空の写真みて、感動したんだけど」と言ってブログをみせたら、 「ふつうですよ」って。そして 「ホンモノはそうだったかもしれないけど、写真にしたらふつう、そういのはガンガンに加工して載せないと駄目ですよ」と。 「えー、がっかり」 だそうです。 ![]() 辛口でしょ。
by fragie777
| 2020-09-11 19:08
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