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8月13日(木) 旧暦6月23日
朝、仕事場向かう途中わたしはミーティングに遅れそうで焦っていた。 「おはようございます。今日のミーティングすこし遅れるかもしれません」 運転の途中の赤信号待ちのときにスタッフたちへラインをした。 すると、 「お休みですよね」 とスタッフの緑さんからラインが入った。 (おお、そうであった!) で、わたしはこんなふうにラインを返したのだった。 あらま「かもしれません」が「かもしれましん」となっている。 ほかのスタッフたちにはまったく無視された。 それの反応も正しい。 わたしのことをよく理解しているのだと思う。 でも、全員に無視されたら、すごく悲しい。。。。 緑さん、指摘してくれて有り難う。。 新刊紹介をしたい。 四六判ペーパーバックスタイルビニール掛け帯あり 194頁 二句組 著者の川崎雅子(かわさき・まさこ)さんは、昭和18年(1943)兵庫県生まれ、現在は神戸市在住。昭和50年「渦」(赤尾兜子主宰)にて俳句をつくりはじめ、「雲母」(飯田龍太主宰)、「柚」(大井雅人主宰)を経て平成21年(2009)「はるもにあ」(満田春日主宰)に入会、平成22年俳誌「とちの木」の創刊代表となる。本句集は、『歩く』『佇つ』に次ぐ第3句集となる。2006年にふらんす堂より『友岡子郷俳句入門365日』を上梓されている。本句集には、「はるもにあ」の満田春日主宰が帯文を寄せている。 囀りは空をゆく舟漕げや漕げ 甘苦と共に、俳句は続く。 今こそ視線を上げよ、世界を讃えよと促す、 川崎雅子の渾身の328句。 川崎雅子さんは、長い時間をお母さまの介護にあたっておられた。 「あとがき」で書いておられるのであるが、昨年の6月4日に亡くなられるまで、その介護の時間は充実した川崎さんにとって至福にみちた時間であったようだ。 本句集は全体を四季別にわけ、それ以外に「母」の項をたてている。 それほど大きな存在であったお母さまだった。 母と私は、私が二つの時に別れ、私が50歳のときから一緒に住む ようになりました。そんな二人が、お互いを必要とするまでになりました。 最後は毎日一回は、母を抱きしめてやりました。くすぐったそうにしていた 母がいよいよ好きでした。 これは担当の文己さんがいただいた川崎雅子さんのメールである。 ほんとうに素敵な母娘関係であったようだ。 先生に𠮟られにゆく朧かな 夏に入る辞書にまぶしき言葉あり 舞台暗転冷房の効いてきし かつて人でありしと夏の大鴉 あぢさゐやすれ違ふとき傘すぼめ 八月の火を美しく使ひをり 爽やかや造船の町よく掃かれ 鰯雲どの思ひにもつながらず 初景色子供の声の散らばりて 母の影足して整ふ初景色 文己さんが好きな句である。 夏に入る辞書にまぶしき言葉あり 春でも秋でもなくて「まぶしき言葉」を見出すのが「夏」であるというのが新鮮だ。大きな青空にその言葉が呼応しているかのように。この一句、わたしも好きなのだが、どうして「夏」なんだろう、ってもう一度たずねてみる。「春」や「秋」だったら「まぶしき」が顕ってこないようにおもえるのだ。光のつよい夏でこそか。まぶしき言葉ってどんな言葉だったのだろう。 八月の火を美しく使ひをり 八月の火、死者を追悼することも多いこの月、必然として火をつかうことも多くなる。漠然とした一句であるが、八月であればこそ、そこにいろいろな意味が生まれてくる。八月という月がもつ昏さ、あるいは闇の深さ、そこに灯された火であるからこそ、美しい。「使ひをり」でそこにかかわる人間と火との関係性もみえてくる。 母の影足して整ふ初景色 お母さまへの敬愛に充ちた一句である。「影」ということばで詩となった。母と娘のやさしい関係がうかがわれる。ともによりそうふたつの影である。あたらしい年をむかえるにあたって、そこに信頼するお母さまがふわっといる、多分著者にとってお母さまの存在は、「ふわっといる」そんな感じだったのではないだろうか。「影」という言葉がそう語っているようにわたしには思えるのだ。母亡き後に〈炎天下いよよひとりの影法師〉という一句がある。 校正者のみおさんは、〈年詰まる列車は星につつまれて〉にとても惹かれました。というこである。 以下は、「母」という項にある句をいくつか紹介したい。 正月はさみしいと母窓に凭る 眠りては遠ざかる母さくら咲く 終戦日母は病衣のままに暮れ 生きてゐることが大切母の冬 死なないで! 夏布団はぎ母を抱く 母の死(令和元年六月四日) 汗つかきの母へこの世の風送る この冬を生きていますよお母さん 第二句集『佇つ』を出してから十七年が経ちました。その大方を母の在宅介護に過ごしました。それは、報道にあるような悲惨なものではありませんでした。母の人柄で、毎日笑いがありました。有難い日々でした。高齢の母を失うことが、ただ一つの恐怖でした。そして、その日が来ました。母は昨年六月四日に亡くなりました。安らかな死でした。 母の死に後押しされ、句集を出すことにしました。『歩く』『佇つ』に続く第三句集名は『坐る』にしました。この集名は長く胸の中にありました。「次は坐る?」と言われた田中裕明先生の笑顔を思い出します。 俳句と共にある生活は赤尾兜子主宰の「渦」に始まり、五十年近くになりました。その間の風景を自身を愛おしく思います。ご指導下さった先生方、多くの句友に深謝申し上げます。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 本句集の装幀は君嶋真理子さん。 出来上がってきたとい、「ああ、いい本になったわねえ」とわたしは文己さんと喜びあったのだった。 タイトルの下にいろんな椅子が並べおかれている。 これを銀箔にした。 タイトルを銀箔にという案もあったが、椅子にしよう、ということになったのだ。 ビニール掛けになっていて、それを外すと、 さらに帯をはずす、 扉。 扉には椅子たちが白抜きとなっている。 全体的に肌色をメインカラーにしたことが、肉体のあたたかさを感じさせ、句集のタイトルと響き合う。 また、この句集をつらぬく人間的なぬくもりとも通じ合っている。 句集を出してみて、やはり良かったと思っています。 いままで、俳句を通して知り合った人々が鮮やかに思い出されたのは意外でした。 昨夜は久しぶりに兜子先生の夢を見ました。若い私にも夢で会いました。 (兜子先生から頂いた手紙は額に入れて飾っています)。 今は感謝の気持ちで、あたたかく満たされています。 川崎雅子さんがおくってくださった言葉である。 嬉しい言葉だ。 目下、著者にお目にかかることができないのが残念である。 そこで、「よろしければ」との前提で著者にまつわる写真を送ってもらうことにした。 日にちがちょっとわからないのだが、 お母さま。 むかって右より友岡子郷、著者、大井雅人、日美清史の各氏。 「ふらんす堂句会」の後で。 田中裕明さん(向かって左後ろ)、その前が川崎雅子さん、向かって右に対中いずみさん。(「大山崎ふるさとセンター」) 「ふらんす堂句会」のあとでいつものところで先生と飲みました。ということである。 田中裕明さんの顔が嬉しそうなのがとても印象的だ。 どの部屋も灯して母と娘の聖夜 雅子 かけがえのない時間が流れる。。。。。
by fragie777
| 2020-08-13 18:57
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