カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
8月8日(土) 涼風至(すずかぜいたる) 旧暦6月19日
すこし前に訪ねて行った家の朝顔。 一幅の日本画のようである。 残暑が厳しい。 なにを思ったのか、わたしは引き出しの中から半袖のボーダーのシャツを取り出した。 そしてそれを着たのである。 半袖というもの、それはわたしの装いにはないものである。 もう何年も二の腕を人前にさらしたことがない。 コロナの鬱屈した状況がそうさせたのか、いや、たいした理由などない。 太い二の腕を見事にさらすことにした。 わたしの二の腕は太陽の光をあびて大きく呼吸し喜んでいるようだった。 知った人間に会うこともないだろう。 ということで今日は仙川商店街を二の腕とともに(?)闊歩したのだった。 これはその記念に家で写真に撮ったもの。 あはっ。 腕が細く撮れたのでアップしてみた。 こんなことをしていると呆れられてブログを見る人もいなくなるかもしれないな。。。。 わたしを見たことのない人も二の腕だけはこうやって見たことになるのね。 ヨロシク、と左の二の腕が言ってます。 などと馬鹿なことを言ってないで、新刊紹介をしたい。 著者の藤咲光正(ふじさき・みつまさ)さんは、昭和20年(1945)年生れ、現在は山梨県上野原市在住。 平成8年(1996)「鷹」入会。平成16年(2004)「鷹」同人。俳人協会会員。本句集は、藤田湘子選、小川軽舟選の作品が収録されている。平成8年(1996)から令和1年(2019)までの作品を収録した第1句集。序文を小川軽舟主宰、跋文を奥坂まやさんが寄せている。 藤咲さんの俳句について、詳しくは奥坂さんの跋文に譲ることとするが、選者として毎月見ている感想としては、当たり外れが大きいのである。それが人真似ではない俳句を作ろうとする意欲の表れであることもよくわかっている。意欲が空振りに終ることも多いが、真芯に当たればホームランが出る。 一噸を吊る一本のロープ冴ゆ 藤咲さんの最初の鷹巻頭作品であり、湘子に「これがつよい俳句表現の極致、これこそ男振りの俳句」と言わせたこの句は、まさにその典型である。 小川軽舟主宰の序文より紹介した。この句は、句集のタイトルともなった一句だ。 跋文を寄せた奥坂まやさんは、「五人会」にて長く句座をともにされてきた。今回たくさんの句をあげて光正さんの俳句について語っておおられるのだが、ここではその一部のみ抜粋して紹介したい。 青空や辛夷全弾発射前 入会一年未満の、ごく初期の作品だが、辛夷の今開かんとする莟の喩えとして、発射寸前の弾丸をもってきたのは、まさに斬新な比喩。光正さんの面目躍如で、辛夷の莟の輝くような白さや勢いのある立ち姿を彷彿とさせる。 折しも平成八年は、湘子によって、創刊三十年を迎えた鷹の再出発―「第二次鷹」が提唱された年。第二次鷹のモットーは、志においては「闊達なるうたごころ」、作品においては「二物衝撃」、組織においては「五人会」。いずれにしても、既存の俳句世界に安住することなく新鮮な作品を産み出すための提言であった。 光正さんの、出来合いの俳句を嫌い、独自の作品を追求する強烈な志は、第二次鷹のモットーにぴったり。ユニークな俳句を詠もうとすれば、当然、失敗作も多くなる。従って、投句の成績は良くないことが度々だが、そんなことは少しも気にかけず、果敢に挑戦を続ける。当たった時は、まさに満塁ホームランだ。その証拠に入会以来の二十四年間に、藤田湘子選で二回、現主宰の小川軽舟選で二回の計四回の巻頭に輝いている。この句集の四つの章立ては、 それぞれの巻頭句によっているのだ。 (略) 離職後の日々よ日ざしよ缶ビール 令和元年、光正さんはご自分の会社を畳み、自由の身になった。四番目の巻頭となった最後の句、それまでのご苦労がひとかたならぬものであったればこその、「日々よ日ざしよ」である。「よ」に万感の思いが籠っている。昼間の明るい光のなか、公園のベンチで、あるいはカフェのテラスで、誰はばかることなく缶ビールを傾けることができる離職後。 本句集では、巻頭をとった句よりその章立てをされている。それが藤咲さんのひそかなご希望であったと。 一袋黒き土あり春来る 唇のかわき樒の咲きにけり 淵と瀬と淵と瀬と夏きたりけり 衣被をんなへ不信募りけり ドアの上非常灯ある寒さかな 一噸を吊る一本のロープ冴ゆ 爽やかやわれに絵を描く仕事あり 顔あげて牛乳飲める四月かな 担当のPさんの好きな句である。 一袋黒き土あり春来る 春は種まきの季節でもある。一袋の土とはきっとその種をまくために取り寄せた土なのだろう。一様に関東の土は黒い。黒くて湿っていて養分もたっぷりあって重たい。水分も含んでしっとりとしている土。袋をひもとけば土の匂いがひろがるだろう。そんな土がいま目の前にある。土いじりもたのしい春がやってきたのだ。「黒き土」であるからこそ春の明るさが際立つ。春という季節は足元の大地をいちばん意識させる季節だ。万物の命が躍動していく季節なのだ。 爽やかやわれに絵を描く仕事あり 藤咲光正さんは、デザイン関係のお仕事をされていたようである。デザイナーとしてだけでなくデザイン会社を経営もされていた。絵を描くことが好きで美術の道にすすまれ、それがお仕事となったのだろう。その仕事をとても大切なものとして思っておられることがこの一句でよくわかる。こんな風に自身の仕事について詠める方は幸せである。そのすこしあとに〈寒卵さみしき画家は歌ひをり〉という句があって、わたしの好きな句である。きっとこの画家は藤咲さんのことであろうと思ったのだが、画家であるという認識を大切にされている方なのだとおもった。寒卵をまえにしてさみしい画家は何を歌っておられるのだろう。ひそかにその歌を聞いてみたい。 はぐれ蟻はたして吾を見てゐたり これはわたしの好きな一句。蟻がうごめいているなかに一匹だけみなからはぐれている蟻に目が留まった。(おお、どうした)なんておもったのかしら、ちょっと近づいてみてみようとしたら、なんということか自分の方をじいっとみているではないか。いや、藤咲さんは、驚いてはいないのだ。「はたして」という言葉があるように、それは驚くべきことではなくて、思っていたように、なのだ。つまり、「はぐれ蟻」がみている藤咲さんがここにいるのだが、その「はぐれ蟻」が藤咲さんのなにかに共感しているように思えたのだ。「はたして」という言葉は、(おもえもアウトサイダーか)と蟻に言われているような藤咲さんの心がとらえた「はたして」なのである。「はぐれ蟻」に自己投影をしている作者がいるのだ。 灼けてゐる昭和のポスト美しき 昭和という時代へのひとつのオマージュとして読んだ。藤咲さんの美意識がとらえた昭和のポストだ。そしてこれはわたしも共感する。あのポストがなくなりつつある現在、昭和という時代もすでにどんどん遠くへと行ってしまいつつある。「灼けてゐる」ポストという措辞は、戦争や様々な災害など激動の時代を耐えてきた色あせたポストであり、それが美しいというのである。ともにその時代を生きた人間だからこそ見出す美しさだ。「なつかしき」ではなく「美しき」なのである。 昭和の終わりに起業し、平成とともに歩んで来た会社を畳むにあたり、その刻印として句集を編もうと思い立った。 折しも時代は平成から令和へ。自由人となったこれからの生活をより充実したものにするためにも良いきっかけになるのではないかと期待もする。 『一噸』には,平成八年の「鷹」入会より現在に至る三四〇句を収めた。 四章ではあるが、ひそかに希望していた巻頭句による章立てを実現できた実に幸せな句集である。 「あとがき」を抜粋した。 「自由人となったこれからの生活をより充実したものにするために」に句集を編むとはなんと素敵なことだろうか。 これまでの総括というよりも、前へすすむための句集である。 思いは過去になく、未来にある。 それが素晴らしい。 本句集の装丁は和兎さん。 本来。藤咲さんはデザイナーであられるので、いろいろとご希望をおっしゃるのかとおもいきや、造本のみをお決めになられてほとんどこちらに任せてくださった。 ブックデザインというものを尊重してくださったのだ。 カバーの題字は、銀箔押し。 表紙は銀刷り。 見返しは錆朱。 扉。 造本はクーターバインディング。 クーターの部分は錆朱。 和兎さんは、紙の材質にこだわった。 春雪の更地の過去と未来かな 藤咲さんの俳句は俳句における自分らしさを問い続ける道程だったと、これらの作品を顧みて思う。 (小川軽舟・序より) 大根引く今朝のきれいなこころかな 自由人となられた藤咲光正さんの生活がさらに充実されますように。
by fragie777
| 2020-08-08 21:45
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||