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7月30日(木) 旧暦6月10日
忙しい一日だった。 途中で友人から電話が入ったのであるが、会うこともできず、仕事をつづけるのみ。 白鷺立つ歴史ににせもののように 田島健一 白鷺のみるみる影を離れけり 小川軽舟 水攻めの武士の化身の白鷺か 鷹羽狩行 東京新聞の7月18日付けの俳句時評の福田若之さんの「ここに句がある」に、鍵和田秞子句集『火は禱り』の評とともに『鍵和田秞子の百句』も少し紹介されている。(書影があるのがうれしい) 目下「鍵和田秞子全句集」の編集中であるので、すこし句集とともに抜粋して紹介したい。 タイトルは「『あそび』が育む『禱り』」。鍵和田秞子の俳句における「禱り」に着目した評である。 『火は禱り』の最初の一句は、〈元朝の濤うねり来るいのちかな〉という。「禱」と濤」は字のつくりが共通している。新年の祝いにもしばしば記される「壽(ことぶき)」の一字は、長命を原義とする。「濤」に「いのち」が、見出されるならば、「禱り」もまた「いのち」と強く結ばれていても不思議はない。たとえば『鍵和田秞子の百句』をまとめた藤田直子は、句中の「末黒野」がのちの植物の生育を促すための野焼きの跡だということに着目し、野を焼く「火」に「再生への禱り」を見出す。 (略) 詩歌文学館賞選考委員の大串章は『火は禱り』の〈あぢさゐや部厚き辞書を繰る少女〉という一句に、戦中の防空壕で『方丈記』を読んだという作者の少女時代を重ねる。そうした言葉との触れあいは、彼女の句作の原風景でもあった。第四句集『武蔵野』の〈三日はやもの書きといふ修羅あぞび〉という一句を思い起こしておこう。「修羅」と「あそび」、相反するふたつのイメージは書くことにおいて融和する。「禱り」とての書くこともまた、そんな「いのち」を徹した「あそび」のうちに育まれるということを、いま一度、信じてみたい気がしている。 車を一年点検に出さねばならない。 今日引き取りに来るという。 わたしは車をポンコツとなるまで長く乗るタイプなので、点検はしっかりとしておかなくてはならない。 それはいいのだが、点検期間に代車を出してもらうことになる。 どんな用事が発生するかわからないからね。 それが頭がいたい。 ディーラーさんは、気をきかして新型のかっこいい車を持ってきたりする。 見てる分には素晴らしいが、なんとしても車の運転は必要におうじてやっているので、そんなカッコいい車を持ってこられても困るというもの。 すこし前に乗っている車よりワンランクもツウランクも上のヤツを持ってこられたときは、いったい運転できるかしらと青ざめたのであるが、 案の定、見事ぶっつけてしまった。 だからイワンコッチャナイ。 (かなりの金額を請求され心臓がばくばくした) 「ゼッタイ大きな車持ってこないでね。チビの車がいいのよ、チビのね」って今回は口を酸っぱくして頼んだのである。 さっき担当者さんが来て、車を引き取ると同時に代車を置いていった。 すぐに確認すればいいのだが、駐車場までちょっと距離がある。 「小さいのにしてくれた?」 「はい、赤い小さな車です」とニッコリ。 ブログを書いてしまったら、駐車場に行ってみるつもりだが、 慣れない車を運転するというのも厄介なことである。 無事に家に帰れるかなあ…… そういえば、おおむかし、 「君は自分で運転するより、助手席に座っている方が似合ってるよ」って言われたことがあったけど、 実は、ほんとはそうなのよyamaokaは。 なーんて言うと ぶっとばされるかもね。 いまは必死で車をあちこちぶっつけながら運転をしておりまする。 ああ、運転手さんが欲しい。。。。
by fragie777
| 2020-07-30 19:01
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