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7月16日(木) 旧暦5月26日
塩辛蜻蛉。 とんぼうとなりて伝へに来たりけり 須田 明 この句、今日これから新刊として紹介する須田明さんの句集『野狐』に収録されている作品である。 この日の蜻蛉、ひとなつっこくなんどもこうやって私の側に来て止まった。 わたしに何かつたえたいことがあるかのようだった。 わたしはそれに対して蜻蛉と仲良くできることがうれしくて、さかんに蜻蛉にはなしかけたのであるが、須田明さんは、この蜻蛉のむこうに「とんぼでないもの」を見つめておられるのだ。 とんぼうはあくまで仮の姿なのである。 それもまた、ロマンをふくんだ物語が展開されてそうで、わたし好みである。 さしずめ、魔法によって蜻蛉の姿にされてしまった「ある国の王子さま」か。 いや、そうだとすると、それにあまりにも陳腐か。 須田明さんは、とんぼうの向こうにいかなる者を見ておられたのか。 お目にかかることがあったら伺ってみたい。 須田明句集『野狐』(のぎつね)を紹介したい。 A5判ペーパーバックスタイル帯あり 72頁 三句組 第1句集シリーズⅡ 著者の須田明(すだ・あきら)さんは、昭和25年(1950)秋田県生まれ、現在は横浜市在住。平成9年(1997)「槇」入会、平成16年(2004)「翡翠」入会、現在「翡翠」(鈴木章和主宰)同人。俳人協会会員。本句集は第1句集で、鈴木章和主宰が序文を寄せている。 折紙のやうに母居る里の秋 須田さんの故郷は秋田県である。彼を育てた女丈夫のお母様は、九十歳を超えても美容院経営を続けておられたと聞いている。誰もがそうであるように、身体のかなめを構成しているのは、細胞内に連綿と引き継がれてきた親族の思いや祈り、そしてそこに生まれ育った風土であるのに違いない。何よりも俳句は意味になる少し前をとらえたものがいい。 「折紙のやうに母居る」は、ことばにならないものをことばによって描き出す俳句表現に叶ったものだし、また、優れた俳句とは、読む者にそれまで意識しなかった発見や驚きを与えられるものであることを私たちに提示し、考えさせてくれるのである。 花満ちて大岡川を沈めけり 横浜の中心を流れる大岡川の両岸の桜並木は枝を覆いつくしてしまうかのよう。この作品は平成二十一年、仲間との吟行句で、後の句会に出された時、大いに共感し、絶賛した記憶がある。一つの場所から見た光景と、その日見たすべての桜と川の光景とをデフォルメ化し、無理なく表現しており、感受した印象が、俳句でなければ表現できない最短のことばによって、見事に昇華されている。須田さんの俳句が写生を基調とした深みを持ちはじめることになる展開点となった一句と思う。 俳句は意味ではない。ことばでもない。須田さんの体を通した詩的な体験がことばを生み、その生み出された力によって現出する世界、一人の俳人の感覚をことばによって可視化されたこのような世界こそが俳句なのだ。 序文より紹介した。 句集名の「野狐」は、「あとがき」によると俳号として「野狐禅」を使っていた時期がおありになったということで「禅」をとって「野狐」となさったということである。 楽しくとルビある楽譜春の曲 九月くる女三十代に似て 七夕の年々小さくなる願ひ 笑ひ出しさうなはうれん草洗ふ 初売りを大きな声で包みけり 振り向けば動かぬふりや立葵 担当のPさんの好きな句である。 笑ひ出しさうなはうれん草洗ふ わたしもこの一句、おもしろい一句であると思った。「笑ひ出しさうな」ほうれん草っていったい、どんなほうれん草なんだろうと思うが、それはやっぱり小松菜でもなくちんげんさいでもなくコリアンダーでもなく、「笑ひ出しさうな」のはほうれん草だろうって納得する。あえて分析してみれば、「ほうれん草」という言葉の語感と見た目がもっているちょっとなげやりでおおらかな感じが「笑い」を呼びこむのか、しかし、こういう分析は野暮だ。「笑ひ出しさうなはうれん草」そう思って洗っている、それが楽しいのだ。須田明さんの直感がとらえたほうれん草のひとつの本質だ。 初売りを大きな声で包みけり この一句、見事に簡略化され俳句らしい俳句と思った。「初売り」という季題がはればれと力強く十全に詠まれている。何の初売りかは省略されているが、それがかえって句をおおらかにして晴れやかなお正月気分が伝わってくる。売る人の活発な動きも見えてくる。多くを語らずしかし多くのことがみえてくる一句だ。 雨音の中に正座の夏座敷 わたしはこの句、好きである。俳句の構造としてはすこし変わっている。やはりとても単純化した景色が見えてくる。夕立でもあるのか、開け放たれて雨音がよく聞こえる夏座敷に正座をしている人間がいる、と書くとなんでもないが、この動詞を使わず、「雨音」「正座」「夏座敷」という名詞のみをたたみかけるように置いて、一つのひろびろとした気持ちのよい景色が展開するのだ。余計なことを言わない分、言葉一つ一つが人間の脳髄に染みこんでいくようにして世界を立ち上げさせている。 ほかに、 鳴き声となりて鶯の消えにけり 春夕焼残して終はる紙芝居 「頑強(ぐわんきやう」と漫画のルビや鬼やんま 本句集の目次は、6章からなり「水星」「金星」「火星」「木星」「土星」「冥王星」となっている。この「冥王星」について須田明さんは、「あとがき」で触れている。 平成九年槇に入会させていただいてから二十数年が経ちました、平成十年頃の句からさして上達していない気もするのですが今年(令和二年)古希を迎えてしまう事もあり、あくまで記念として句集もどきを出版させてもらう事にしました。 以前俳号に、「野狐禅」という名を用いていた時期がありました、独りよがりでバラバラ思考の句にならぬようにと自分への戒めのつもりでしたが鈴木先生からそこまで卑下をしなくてもよいと言われ本名に戻しました、しかし今でも独りよがりの句にならぬようにとの思いは同じです、(それでも時々……)そこで「禅」をとって野狐を句集の名前にしました、各章の題の最後はこれ以上呆けて太陽系の惑星から外されて準惑星だなどと言われぬようこれも自戒の意味を込めて冥王星とつけさせていただきました。 但しニュー・ホライズンズの最新の観測からは太陽から六十億キロの冥王星の内部に熱源が存在している事が解ったそうで、私もどんな環境になっても内部に俳句の熱だけは冷まさぬようにこれからも勉強は続けていこうと思っています。 装幀は和兎さん。 第1句集シリーズ、第Ⅱ期の第1回目の刊行となった。 Ⅰ期とも響き合うものをということで。 炎天の子に犬負はせ罪も負はせけり 人として生まれ、人はいろんな人間になっていくが、俳句を生き甲斐として、自己実現を図ろうとするときに出合うよろこびや艱難を真摯に静観しようとする姿勢。私は須田明さんの『野狐』をその視点で読んだ。 (序文より・鈴木章和) さきほど、ブログを書き始めたら、スタッフのPさんが「ふらんす堂通信165号」のゲラをドサッとわたしの机の上に置いて、「20日の月曜日に校了にしますから、土日で読んでおいてください」と一方的にのたまう。 「ええ、そんな、わたしだって用がある、、、」と言っても通用しやしない。 もう少しゆったりと仕事をしたいとおもっているのに。。。 可愛そうなyamaokaである。(←誰も哀れんでくれないから、仙川の鳥たちに言いつけるんだ) 今日の雀。 バッタだろうか、大きな虫みたいなものを咥えていた。 今日のセミコちゃん。 セミオくんも飛んできて、最近は二羽に歓迎されることが多い。 まず鳴き声がして、それから姿をみせて行ったり来たりしてくれる。 今日は朝だったけれど。
by fragie777
| 2020-07-16 19:15
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