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7月15日(水) 旧暦5月25日
仙川の通し鴨。 かなりの数の通し鴨がいる。 青鷺。 すっかり馴染みになってしまった。 わたしは今日は仕事場に出かけなくていい日であるはずであったが、そういうわけにもいかなくなって、お昼過ぎに車で向かって1時間半ほど仕事をして家に戻る。 仕事場に行けば装丁の確認やら、一部抜きの確認やら、宅急便を出すやら、落ち着いて仕事にとりかかるわけにはいかなくなってあわただしいばかり。 今日は中村雅樹氏の執筆による「橋本鶏二の百句」を校了にする。 中村氏は、橋本鶏二の「写生について」を中心に鑑賞をされている。 ご依頼のときに、わたしが希望したこともあるが、きっと中村雅樹氏のなかでもそうのような草稿でいかれることを考えておられたのに違いない。 虚子の提唱した「客観写生」という考え方が、俳人個々人においてどのようにとらえられたか、あるいはどのように実践されたか、その作家によって探っていくのも興味深いことだと思う。 橋本鶏二氏の句集は、かつて出版社勤めのときに『鷹の胸』を担当したことがあり、この句集で氏は「俳人協会賞」を受賞されており、わたしにとっては思い出深い俳人のおひとりでもある。 橋本鶏二の写生論が詳細に分析され展開されていく。 また、虚子のへの思いが一句となっている句などあらためて面白く読んだのだった。 この「百句シリーズ」もさらにいろんな俳人を加えながら充実したものにできればと思っている。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装帯有り 196頁 二句組 著者の伊藤隆(いとう・たかし)さんは、昭和7年(1932)千葉県中郷村(現木更津市)生まれ、現在千葉市在住。退職後の平成17年(2005)「いには俳句会」(村上喜代子主宰)入会、平成22年(2010)「いには俳句会」同人。俳人協会会員、千葉県俳句作家協会会員。本句集は第1句集となり、村上喜代子主宰が序文を寄せている。 一筋の道を愚直に去年今年 老いてなほ大志を誌す初日記 ひたすらに逃水追ひて晩年へ 濁世いま太き声出せ蟇 凍星や国の行方をふと思ひ これらの句からは氏の益荒男ぶりと向上心がまざまざと伝わってくる。この一筋の道を追い、濁世を厭い、日本の行方を案じてやまない姿勢は、どこから生まれてきたのであろうか。戦前の日本男児として誕生したという男気と誇りからかもしれない。が、大学卒業後、日本国有鉄道に入社、という職歴も大きく影響しているのではなかろうか。いわゆる国鉄マンとして日本の根幹事業に携わって生きて来た、という自負と矜恃なのである。 序文を紹介したが、ここで書かれている「益荒男ぶり」は、この句集を一貫して流れているものだと思う。もう少し序文より紹介したい。 水仙や沖に一舟動かざる 房州の花づくりは安政年間の鋸南町保田に始まるといわれる。水仙を江戸幕府に上納したことから今や水仙の日本三大群生地の一つとなった。この句からは保田から東京湾を見渡した景がまざまざと思い浮かぶ。釣り舟だろうか、穏やかな内海に動かない一舟。氏の愛する房総の原風景と言ってもよい。余計なことは言わず風格がある。どことなく氏の俤も浮かんできて私の好む句の一つである。 近景と遠景、水仙の黄色と海の紺、そんな対比もあざやかでわたしも好きな一句である。 本句集の担当は、文己さん。 老いてなほ大志を誌す初日記 草の芽やこの日本の底力 脱皮せるごとく甚平着こなせり 氷菓食ぶ童心ひそと蘇り 霜柱ふめば地の神応へけり 氷菓食ぶ童心ひそと蘇り アイスクリームかそれともアイスキャンデーか、それを食べながら少年のときの気持ちを蘇らせているという、大人社会ではアイスキャンデーを舐めると言う風景とは無縁である。とくに伊藤隆さんのように自負と誇りをもって競争社会のなかで働いて来られた方は、そんな機会もなかったかもしれない。わたしは夜に冷凍庫から取り出して小豆アイスキャンデーとかバナナアイスキャンデーとかを舐めながら食べることがあるのだが、こういう行為自体すでに気取りからは縁遠いやや滑稽な行為であるが、自分が武装解除して子どもにかえったと思いながら食べると楽しいものである。「ひそと」というところにこの作者の恥じらいがあるのだ。わたしのように足をなげだしてぺろぺろと放埒に食べるのではなく、「びそと童心が蘇る」チャーミングなお方なのである。歳をかさねても恥じらいはなくてはね、やや反省しています。 千年の樟のふところ鳥の恋 これは校正者のみおさんが好きな一句であるという。 「おおらかでとても好きです」というコメントがあった。 樟は、常緑樹。ものすごく大きな木になる。千年の樟であるなら、推して知るべしである。その深々とした樟の木のふところに抱かれて、鳥たちは繁殖に余念がない、山野の野鳥は、繁殖行為をめったに人目にさらすことはないというが、千年の樟の木のふところであったらそれはもう安心して交尾をすることもできるだろう。「千年」という時間の流れが呼ぶゆえであるか、「鳥の恋」も生殖活動を超えたロマンの香りを漂わせてひとつの物語が生まれそうである。 革ジャンを着てなほ老いをかくせざる 好きな一句である。伊藤隆さんの素敵な自意識である。革ジャンを着こなすなんてやるじゃないですか。スーツ姿で雄々しく働いてこられた著者であるから、革ジャンというきわめてカジュワルな装いは日常着としてはややハードルを超えたものなのだと思う。そして著者の気持ちとしては革ジャンは若者のものであるというそんな思いもある。ある日そんな思いをえいっとばかりふっきって革ジャンに手をとおしてみた。どうだろう、似合っているだろうか、なんだが着心地が今ひとつかな、などなど必要以上に革ジャンをきた自分を思う。革ジャンには魔法がかけられていて、着ればぐっと若く見えると思ったのにそうでもないな、などの自意識からくる恥じらいが一句となった。 私は昨年十月に数えで米寿という節目を迎えた。この節目を契機として、「いには俳句会」において学んできた自分のささやかな足跡を記すべく、ここに句集を出すこととした。 七十歳でサラリーマン生活を終えた後、自由な身になってから、学生時代の友人達と数年かけて四国遍路を行った。その過程で俳句の片鱗に触れ、俳句への関心をもつようになった。晩年の自由な時間を持て余すことなく有効に活用するためには俳句に勝るものはないと確信した次第である。 俳句を始めるに際して、各種の講座で学ぶ機会を持ったが、何分七十の手習いであるため、上達は遅々としたる有様であった。 平成十七年に「いには俳句会」が発足するに当り、縁あって入会した。当初は最末席であったが、村上主宰の懇切な御指導により、一歩ずつ歩みを進めることができた。 今後とも老骨に鞭打って俳句に精進してまいりたいと思っております。 「あとがき」を一部紹介した。 「あとがき」にも実直なお人柄が滲みでている。 本句集の装幀は君嶋真理子さん。 題名を黒メタル箔にするか金箔にするか、迷ったところだが、艶消しの金箔にした。 表紙と見返し。 扉。 著者の住まわれている房総半島の海と波頭を思っていただくと嬉しい。 息災は天の恵みよ明の春 老いてなお大志を抱き国のまほろばを信じ、百歳も夢ではないほどに若々しい心身に恵まれた伊藤氏。その句集から誰しも元気を頂けるに違いない。 句集『天恵』のご上梓を心より祝福したい。 (村上喜代子・序文より) 伊藤隆さま、米寿そして句集のご上梓、まことにおめでとうございます。 ここんとこ凝っている料理というほどでもない料理の一品に、椎茸のバターソティーがある。 肉厚の椎茸をいしづきだけはずして包丁をいれず、たっぷりのバターで炒めるというもの。このバターがトリュフ入りバターであるとさらに美味しい、いまわが家の冷蔵庫には長い間眠っていたこのバターがあってそれがべらぼうに美味いバターであることが最近分かった。 それで炒めたところ、やや焦がしたバターの風味とトリュフの香りと椎茸の風味と歯ごたえ、すっかりやみつきになってしまった。せっかく体重を落とした昨今、もとに戻りそうでコワイ。。。
by fragie777
| 2020-07-15 18:33
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