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6月30日(火) 大祓(夏越) 旧暦5月10日
わが家の令法(りょうぶ)が咲いた。 令法は山の木で丈高い木であるが、わたしのところでは株立ちで植えてあって、その木の風情がとてもいい。 花も目立たないのだが、こんな風にこぼれた花を見ると丹念な造型であり、清雅な気配さえある。 ちょうどこの日、植木屋さんがはいって丈をかなり短くし、葉も刈り込んでさっぱりとしてしまった。 むこうにみえるのはえごの木。えごも山の木。令法ともども好きな木である。 山の木のもつ野趣がわたしは好きだ。 ここんとこ体重が良い感じで減っていたのであるが、今日体重計にのると200グラム増えている。 増えたな……。 しかし、この200グラムというのはどう考えるべきなのか。 肉のかたまりで考えると、結構な量である。 わたしの体で考えた場合、肉が一日でそれだけついたということか。 あるいは水分も加わっているのだろうか。 200グラムを減量するためにわたしは何をすべきなのか。 あほらしいでしょ。 こんなに真面目になっちゃってさ。 生まれてこの方、こんなに意識して体重管理をしたのは、はじめてである。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装帯有り 184ページ 二句組 著者の根本晴美(ねもと・はるみ)さんは、昭和30年(1955)東京生まれ、現在は栃木県佐野市在住。俳句は、東京・杉並区荻窪小学校に勤務したときに出会い、そこから40年間病止めることなく作り続ける。本句集は、その40年間の人生を俳句によってかたちにしたものであり、根本晴美さんのこれまでの人生が詰まっている。跋文を「諷詠」同人の金田志津枝さんが寄せている。荻窪小学校で根本さんを俳句に導いた方だ。 根本晴美さんとのご縁は、昭和五十三年四月、晴美さんが、新教師として着任された杉並区立荻窪小学校で同じ二年生の担任となったことからはじまります。(略) その頃荻窪小学校には私が世話していた俳句会「花蝶会」がありました。十名位の教員が月一回、学校に予定のない日の放課後、会をもっていました。ときには校長まで出席して下さり、ついに伊豆の方へ吟行会をするまでになっていました。会の句稿は私の所属する俳誌「諷詠」の主宰後藤比奈夫先生の選を仰いでいました。晴美さんは教職三年目にこの会に出席し俳句を始めたのです。 金田志津枝さんの跋文を紹介した。 そして、 しかし彼女は在職四年にして退職し、御主人の実家栃木県佐野市に嫁がれたのです。俳句会には初学二年しか出席できませんでした。栃木では教職に就かず主婦の道を選ばれました。時々の電話、そして毎月五句の投句によってその良妻賢母ぶりはこちらにも伝わってきました。私の勧めにより俳句は毎月投句という形で続けられたのです。その間、御主人の両親のお世話をし、四人の御子を育て、御主人とは睦まじく過ごされています。その中で時間を見つけひとり机に向って俳句を作られて来たのです。四十年、休むことなく続けられたのです。 句会に出席することもかなわず、それでも40年の間ひとりで俳句をつづけてこられたという。 「俳句を通して今までの人生の節目の情景が鮮明に思い出されることに驚きまた嬉しく、三月の退職を機に一冊に纏めて置きたい」という根本晴美さんよりの突然の電話をうけた金田志津枝さんのご尽力もあって。今回の句集出版へとこぎつけたのである。 欲しきもの自分の時間春の宵 背の伸びてきし子に浴衣似合ひけり 大試験これからの子と終へし子と 年忘れ食べて笑つて食べにけり 遠足の帰路は静かになりにけり 雛飾る仕事に活きる娘嫁ぎし娘 鬼やらひ夫とひつそり終りけり 本文より金田志津枝さんがお好きだという句を抜粋して紹介した。 雛飾る仕事に活きる娘嫁ぎし娘 根本さんには4人のお子さんがあって、句集を拝読すると男二人女二人の構成であるようだ。この「仕事に活きる娘」というのは、「娘の決めし任地は砂漠春の雲」「娘のアラブ暮しはいかに雛飾る」などの句があるように、外国の砂漠地帯で果敢に仕事をされているようだ。アラブ暮らしをしている娘におせちを送る句などもある。「初めての母となりし娘秋の月」の句は結婚された娘を詠んだ句。かつてはともに暮らした娘たちと一緒にお雛さまを飾ったそんな歳月をおもいながらそれぞれの場で頑張っている娘たちをいまはひとりでお雛さまをかざりながら思っているのだ。 本句集の担当は文己さん。 子の掃きしあとの落葉を掃きにけり 独楽のひも持つ手に添へし教師の手校庭で冬を探すといふ授業 校庭で冬を探すといふ授業 この一句、わたしもおもしろいと思った句である。著者は、教職についていたのは結婚するまえの4年間、短い期間とはいえ、やはり学校教育には止めてもおおいに興味があったのだと思う。平成11年には、栃木県足利中学校の特別支援学校の非常勤講師として勤務され、平成24年には常勤教師となる。この一句はその特別支援学校の授業のひとつを句に詠んだのだ。校庭に冬をさがす、おとなのわたしにもおもしろそうだ。子どもは必死でさわったりなでたり見入ったり耳をすましたりして「冬」をさがす。いまふっとおもったのだが、季語を知っている俳人はこういうことについては強いかもね。しかし、たぶんこの授業、言葉が先行するのではなくあくまで人間の感覚をフル稼働させて冬を見つけるというのだと思う。子どもが自然に体当たりしながら冬なるものを見つけるのだろう。おもしろそうだ。 吾子よりも素直と思ふ目高の子 本句集には「吾子」という言葉がそれはもうたくさん出てくる。掲出のこの句は、自分の子どもと目高の子どもと比べているのがおもしろい。ふつう目高の子をみて自分の子どもより素直という感覚は持たないと思うが、この頃の句に「酷暑なりその上吾子は反抗期」などがあって4人のお子さんをかかえしかも反抗期、目高の子の可愛らしさをうらやましいとつくづく思ってしまったのだろう。 空蟬を食べられるかと問はれもし わかるわ、この感覚。この一句は後半の教職についていたときの一句だ。「食べられる?」て聞く子どものひたむきな眼差しが見えてくる。食べても毒にはなりそうもなく、カリカリとして歯ごたえがよさそうだ。なんて答えたのだろうか。根本先生は。わたしの友人でけっこう何でも口にいれて食べてしまう男子がいて、そう、彼なら食べてみるかもしれないって思った。 大学を卒業した昭和五十三年、東京都杉並区立荻窪小学校に勤め始めました。新卒の私を指導して下さったのが、同学年を担当した金田志津枝先生でした。二年後、金田志津枝先生(「諷詠」東京支部長)に勧められて、学校の俳句の 会「花蝶会」に属し俳句を作り始めました。 荻窪小には四年勤め、退職しました。その後は、栃木県佐野市に移り住み、専業主婦として子育てと姑の介護で過ごしました。 句会への参加が遠方で難しかったので、投句のみで過ごしました。数年後「諷詠」にも、金田先生からの勧めで投句するようになりました。 平成十一年から非常勤講師として、平成十三年から常勤講師として栃木県立足利中央特別支援学校、栃木県立栃木特別支援学校に勤めました。 途中、何度か俳句を止めそうになりましたが、決まって金田先生から連絡があり、続けることができました。 令和二年、退職を機に今までの俳句を並べて見ることで、自分の人生を少し振り返ることができるような気がし、整理をしてみました。本当に、句を読み直してみると、当時のことが鮮明に思い出され驚くほどでした。 「記憶より記録」俳句を通じて当時の感情も思い起こされ、まとめることは楽しい作業でした。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 本句集の装幀は、君嶋真理子さん 「桃の花」の装画にしてほしい、というのがご本人の希望。 「雛」の句も多い。 表紙 見返し 扉。 忘れていた年月の中のある場面が見事に思いだされその一つ一つが自分の大切な時であったことに気付かれたのでしょう。俳句が自分にとってどんな意味を持っていたか、そのことに改めて気付かされたのです。(跋・金田志津枝) テーブルにテーブル足して盆の客 田舎のお盆ってこんな感じだ。お客さまがたくさんあって、予定していたテーブルでは足りなくなって、どっかからテーブルをもってきて、ほんとどっかからなのだ、これは田舎の七不思議のひとつ、で間にあわせてしまう。わたしもかつては田舎の子だったので、おじいちゃんの家とかそんな風景があって、懐かしい。冠婚葬祭はそうだった。ご近所さんや親戚一同があつまってそれこそにぎやかに娑婆に生きている人間が動きはたらく。その傍らでその場の悲しみや喜びに関係なく子どもたちは自分たちの世界で楽しむ。大人と子どもの世界がいい感じで分離していた。いまはもうそんな世界はなくなりつつある。 「ふらんす堂通信」の編集に突入しつつある。 季刊誌であるのに、もう、って感じ。 月刊誌の総合誌や俳誌など、どんだけー!って思ってしまう。
by fragie777
| 2020-06-30 18:39
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