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6月29日(月) 旧暦5月9日
先日遊んだ神代植物園では、白の紫陽花がとりわけきれいだった。 好きな色はなに?って聞かれると、 「うーん、白かな」と答えることが多い。 いっときは、白しか着なかったことがある。 おしゃれで、というよりも色のついたものが受け付けられなくなったことがあったのだ。 白を着ていると落ち着いた。 やや、心の問題があったのかもしれないが、 ええ? うそでしょ、yamaokaに限ってと思ったあなた、 わたしもそうおもうのだけど、いまから思い返すとややナーバスに現実に傷ついていたのかもしれない。 笑わないでよ。 白、上等! である。 その文脈があっていまも白を引きずって白がすきなのか、そんなくだくだしいいきさつは関係なく白がすきなのかはわからないが、白が好きであることは確か。 「現代詩手帖」七月号がとどく。 「連続討議 現代詩季評」で、ふらんす堂より刊行の二冊の詩集がとりあげられている。 評者は、稲川方人、中尾太一、菊井崇史の各氏。 「試されながら詩を読んでいく」というタイトルでとりあげられている詩集は4冊である。 大切なことが語られているので、はじめから最後まで通して読むことをおすすめしたい。 ここでは、上記の2冊の詩集について、ほんのさわり(?)の部分のみの紹介にとどめる。 菊井 この詩集の抒情詩のあり方を話すことは、それを記した書き手の生について話すことを避けることがきないように書かれています。利岡さんが抒情詩の「私」として、自分はここでいきていると書いた言葉を、詩としてどうかという価値基準のなかで見落としてしまったら、自分たちが前回態度表明した読みの姿勢を裏切るだろうと思いました。稲川さんは前回、読む私も苦しんでいるし、書いているあなたも苦しんでいる。答えがどこにあるかわからないからこそ一緒に探っていこう、という言い方をされたでしょう。それはとても大事だと思っていて、この詩集はそういうふうに接したいと思ったんです。 稲川 冒頭の詩「閉ざされた時の中で」に象徴的な行があって、「手もとからこぼれた 暴風雨に対応しようとした言葉も/いまだ汚泥にまみれている」「言葉ならいっくらでも逸らしておける」と。これは詩集の布置を書いていると思うんです。「雨」「廃屋」といった言葉がしばしば出てきますが、そのなかに幽閉されている「私」という布置がこの詩集にはあってその決定的な文脈のなかで、主体の存在の孤独が発生し、詩集全体の主題をつくっている。豪雨のなか、廃屋にたった一人でいる存在という風景。この「私」の布置がぼくにはなかなか了解しえない。 中尾 ぼくも、ときどき自嘲するような感じでヒロイックになる主体に賛同はできないんだけど、でも利岡さんは場面転換をけっこうやっているんです。それによって無意識にいま稲川さんが言った「私」からどこかへ出ていこうとしている。この状況をあらわす語句が作品によってはっきり分かれていて、それが連続性と展性をもって書かれている。「閉ざされた時の中で」だったら「土砂降りの雨」「浸りきる」「体から滴らせながら」と、自分の状況を悲観的に自覚しながら孤独を主張する。でも三連目で雨が上がると、「光」「色づき」「空」と、言葉が変わってくる。四連目では「大量のスクラップ」と「いっしょに腐食していく」。そこから次の詩「剥き出しの地」に場面がつながっていく。読んでいくと、この人はどうなるんだろう。と思うわけです。すると、「結局は誰とも親しみを分かつことなく」(「本当に眠るために」)と書いている。ここなんですね。この人の一行は。こういうふっと零れたような素朴な心情が一番胸に迫る。自分をヒロイックに絶望的にとらえていようが、こういうふと出た一行に吸引される。 稲川方人さんは、この詩集についてやや批判的にとらえていて、そのへんのやりとりがおもしろい。 そして、もう1冊が、そらしといろ詩集『もうずっと静かな嵐だ』 中尾 そらしといろさんの『もうずっと静かな嵐だ』は、小川のせせらぎを聞きながら歩いていくとき、その小川を実際に確認して足が止まる、こういう停止の感じが怖いような、慄くような気持ちにさせられるところがありました。開示されるものと主体との距離を連続的に感じていることが、必然的に今回の短い行分けのかたちになった。行=詩であるということのみずみずしさがまずよかった。 稲川 そらしさんはできる限り物語的なノイズを排しようとして書いている。一行一行「私」がある場所で書こうとしていることろは、前に二人の詩人の試みとは決定的に違う。表象的な言い方になりますが、そらしさんの試みに表れている現在性はリアルに響いてきて、それはこの詩集の重要なところだと思うんです。 最初、この希薄さはなんだろう、希薄さを耐えて書いているのかなと思っていたら、後半になってきて、現在性のなかで自己があるとはどういうことか、他者がどういうかたちにあるかということに、とても厳しい姿勢が出てくる。現在にある生の姿が厳しくこの詩集に立ち現れていることをぼくは評価します。 菊井 抒情詩であることの前提的な条件が情調と切り離せないものとするなら、この詩集は、「悲しい」「嬉しい」「楽しい」といった情調の形容詞をほとんど使っていません。ぼくが見つけられたのは、「傷口からの景色を/痛みとして共に恋しく想う」という「恋しい」という言葉で、あとは感情を示す形容詞に抒情性を託していない。にもかかわらず、ここにはこの人が生きて、関係のなかで経験したであろう情調が体現されている。ここに記された関係も同じで、「僕」と「君」がどういう関係かをひと言では書いていないし、形容詞化もしていない。けれどもそのなかで「僕ら」の出来事が記され、そして砕け、さらにもういちど抱えながら生きているんだろうということを感じさせる。形容詞を経由せずに情調の光景を書いていることに驚きました。 それぞれの詩集についてもっともっとたくさん語られているので、ぜひに全体を読んでください。 今日は朝から仕事場で仕事。 途中ですごく眠くなってしまい、睡魔と戦った。 在宅だと、ちょっと横になったりできることがいいわねー。 明日は家での仕事となる予定。 呼び出されたら、来なくてはならないけれど。 仙川で生まれたばかりらしいカルガモの子ども。 仙川はカルガモの出産ラッシュらしく、いろんなところで子どもたちが生まれている。 まあ、結構なことじゃありませんか。
by fragie777
| 2020-06-29 19:23
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